・・・ 私はリスポアを船出した時から、一命はあなたに奉って居ります。ですから、どんな難儀に遇っても、十字架の御威光を輝かせるためには、一歩も怯まずに進んで参りました。これは勿論私一人の、能くする所ではございません。皆天地の御主、あなたの御恵でござ・・・ 芥川竜之介 「神神の微笑」
・・・そのような不祥がございませんように、どうか茂作の一命を御守りなすって下さいまし。それも私風情の信心には及ばない事でございましたら、せめては私の息のございます限り、茂作の命を御助け下さいまし。私もとる年でございますし、霊魂を天主に御捧げ申すの・・・ 芥川竜之介 「黒衣聖母」
・・・「その儀は、宇左衛門、一命にかけて、承知仕りました。」 彼は、眼に涙をためながら懇願するように、佐渡守を見た。が、その眼の中には、哀憐を請う情と共に、犯し難い決心の色が、浮んでいる。――必ず修理の他出を、禁ずる事が出来ると云う決心で・・・ 芥川竜之介 「忠義」
・・・たったさっきまで、その名誉のために一命を賭したのでありながら、今はその名誉を有している生活というものが、そこに住う事も、そこで呼吸をする事も出来ぬ、雰囲気のない空間になったように、どこへか押し除けられてしまったように思われるらしい。丁度死ん・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・ 生活に興味を失っている若い人々の中では、毎日うなだれて沈んでいるものもありましたが、一命を賭けても、幸福の世界を見いだしたいと思ったものもありました。そして、夏の日が海のかなたに傾いて無数のうろこ雲が美しく花弁のように空に散りかかった・・・ 小川未明 「明るき世界へ」
・・・が、いや、差しかかった主人の用向が大切だ、またおれの一命はこんなところで果すべきものではないと、思いかえして、堪忍をこらし、無事に其の時の用を弁じて間もなく退役し、自ら禄を離れて、住所を広島に移して斗籌を手にする身となった……。 それよ・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・幸い一命を取りとめ、手術もせずに全快したのは一枝や、千代やそれから千代の隣の水原芳枝という駅の改札員をしている娘たちの看病の賜といってはいい過ぎだろうか。この三人は小隊長の病気以来ずっとこの家に泊りこんでいるのである。オトラ婆さんだけに小隊・・・ 織田作之助 「電報」
・・・ しかるにその翌月、十一月十一日には果してまたもや大法難にあって日蓮は危うく一命を失うところであった。 天津ノ城主工藤吉隆の招請に応じて、おもむく途中を、地頭東条景信が多年の宿怨をはらそうと、自ら衆をひきいて、安房の小松原にむかえ撃・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・誰が見ても助かるまいと言った学士が危く一命を取留めた頃には、今度は正木大尉が倒れた。大尉は奥さんの手に子供衆を遺し、仕掛けた塾の仕事も半途で亡くなった。大尉の亡骸は士族地に葬られた。子供衆に遺して行った多くの和漢の書籍は、親戚の立会の上で、・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・おれは敗けてどうせ近く死ぬのだから、せめて君だけでも、しっかりやって呉れ、という言葉は、これは間違いかも知れないね。一命すてて創った屍臭ふんぷんのごちそうは、犬も食うまい。与えられた人こそ、いいめいわくかもわからない。われひと共に栄えるので・・・ 太宰治 「姥捨」
出典:青空文庫