・・・彼は泥烏須を念じながら、一心に顔をそむけようとした。が、やはり彼の体は、どう云う神秘な呪の力か、身動きさえ楽には出来なかった。 その内に突然沈黙が、幻の男女たちの上へ降った。桶の上に乗った女も、もう一度正気に返ったように、やっと狂わしい・・・ 芥川竜之介 「神神の微笑」
・・・康頼と少将とは一心に、岩殿詣でを続け出した。それも岩殿を熊野になぞらえ、あの浦は和歌浦、この坂は蕪坂なぞと、一々名をつけてやるのじゃから、まず童たちが鹿狩と云っては、小犬を追いまわすのも同じ事じゃ。ただ音無の滝だけは本物よりもずっと大きかっ・・・ 芥川竜之介 「俊寛」
・・・ しかし尼提は経文によれば、一心に聴法をつづけた後、ついに初果を得たと言うことである。 芥川竜之介 「尼提」
・・・ 引込まれては大変だと、早足に歩行き出すと、何だかうしろから追い駈けるようだから、一心に遁げ出してさ、坂の上で振返ると、凄いような月で。 ああ、春の末でした。 あとについて来たものは、自分の影法師ばかりなんです。 自分の影を・・・ 泉鏡花 「女客」
・・・さすがの政さんも今までお前さんのうわさをしていたのさとは言いかねて、一心に繩をなうふうにしている。おとよさんはみんなにお愛想をいうて姉のいる方へ上がった。何か機の器具を借りに来たらしい。 やがて芋が煮えたというので、姉もおとよさんといっ・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・ 民子は襷掛け僕はシャツに肩を脱いで一心に採って三時間ばかりの間に七分通り片づけてしまった。もう跡はわけがないから弁当にしようということにして桐の蔭に戻る。僕はかねて用意の水筒を持って、「民さん、僕は水を汲んで来ますから、留守番を頼・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・日あたりのよい奥のえん側に、居睡りもしないで一心にほぐしものをやっていられる。省作は表口からは上がらないで、内庭からすぐに母のいるえん先へまわった。「おッ母さん、追い出されてきました」 省作は笑いながらそういって、えん側へ上がる。母・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・』て一心に僕は駆け出したんやだど倒れて夢中になった。気がついて見たら『しっかりせい、しつかりせい』と、独りの兵が僕をかかえて後送してくれとった。水が飲みたいんで水瓶の水を取ろうとして、出血の甚しかったんを知り、『とても生きて帰ることが出来ん・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・ 娘は、室の裡に閉じこもって、一心に蝋燭の絵を描ていました。しかし年より夫婦はそれを見ても、いじらしいとも哀れとも思わなかったのであります。 月の明るい晩のことであります。娘は、独り波の音を聞きながら、身の行末を思うて悲しんでいまし・・・ 小川未明 「赤い蝋燭と人魚」
・・・またある一つの窓ではレシーヴァを耳に当てて一心にラジオを聴いている人の姿が見えた。その一心な姿を見ていると、彼自身の耳の中でもそのラジオの小さい音がきこえて来るようにさえ思われるのだった。 彼が先の夜、酔っていた青年に向かって、窓のなか・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
出典:青空文庫