・・・聴き捨てにする人は少なく、一銭二銭を彼の手に握らして立ち去るが多かった。 二 同じ年の夏である。自分は家族を連れて鎌倉に暑さを避け、山に近き一小屋を借りて住んでいた。ある夜のこと、月影ことに冴えていたので独り散歩して・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・九段の公園で砂書きの翁を見て、彼はただちにこれともの語り、事情を明して弟子入りを頼み、それより二三日の間稽古をして、間もなく大道のかたわらに坐り、一銭、五厘、時には二銭を投げてもらってでたらめを書き、いくらかずつの収入を得た。 ある日、・・・ 国木田独歩 「非凡なる凡人」
・・・朝早くから、晩におそくまで田畑で働き、夜は、欠かさず夜なべをした。一銭でも借金を少くしたかったのである。 おしかはぶつ/\云い乍らも、為吉が夜なべをつゞけていると、それを放っておいて寝るようなこともしなかった。 戸外には、谷間の嵐が・・・ 黒島伝治 「老夫婦」
・・・しかし、私のうちにはお金は一銭も無いんです。お父さんはモウ六ヵ月も仕事がなくて、姉も妹もロクロクごはんがたべられなくて、だんだん首がほそくなって、泣いてばかりいます。私が学校から帰えって行くたびに、うちの中がガランガランとかわってゆくのです・・・ 小林多喜二 「級長の願い」
・・・ だが、さすがにこの赤色別荘は、一銭の費用もかゝらないし、喜楽的などころか、毎日々々が鉄の如き規律のもとに過ぎてゆくのだ――然し、それは如何にも俺だちにふさわしいので、面白いと思っている。「さ、これから赤色体操を始めるんだぞ。」・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・であずかって置いて下さい、また来ます、と言って帰りましたが、奥さん、私どもがあのひとからお金をいただいたのは、あとにもさきにも、ただこの時いちど切り、それからはもう、なんだかんだとごまかして、三年間、一銭のお金も払わずに、私どものお酒をほと・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・五十円持って旅に出たまずしい小心者が、そのお金をどんな工合いに使用したか、汽車賃、電車代、茶代、メンソレタム、一銭の使途もいつわらず正確に報告する小説を書こうと思います。 ふざけた事ばかりを書きました。きょうは女房から手紙が来ました。御・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・ふだん友人の煙草ばかりをふかし、散髪をせず、辛抱して五円の金がたまれば、ひとりでこっそりまちへ出てそれを一銭のこさず使った。一夜に、五円以上の金も使えなかったし、五円以下の金も使えなかった。しかも私はその五円でもって、つねに最大の効果を収め・・・ 太宰治 「逆行」
・・・女は、大学生から貰ったお金は一銭もわが身につけず、ほうばいの五人の女中にわけてやり、ばたばたと脛の蚊を団扇で追いはらって浅草まつりが近づいたころには、その食堂のかんばん娘になっていた。神のせいではない。人の力がヴィナスを創った。女の子は、せ・・・ 太宰治 「狂言の神」
・・・家の経済を思えば、一銭のむだ使いも出来ぬ筈であるのに、つい、ふとした心のはずみから、こんな、つまらぬ旅行を企てる。少しも気がすすまないのに、ふいと言い出したら、必ずそれを意地になって実行する。そうしないと、誰かに嘘をついたような気がして、い・・・ 太宰治 「佐渡」
出典:青空文庫