・・・ 不時の回診に驚いて、ある日、その助手たち、その白衣の看護婦たちの、ばらばらと急いで、しかも、静粛に駆寄るのを、徐ろに、左右に辞して、医学博士秦宗吉氏が、「いえ、個人で見舞うのです……皆さん、どうぞ。」 やがて博士は、特等室・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・ 副官が這入って来ると、彼は、刀もはずさず、椅子に腰を落して、荒い鼻息をしながら、「速刻不時点呼。すぐだ、すぐやってくれ!」「はい。」「それから、炊事場へ露西亜人をよせつけることはならん。残飯は一粒と雖も、やることは絶対にな・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・その規約によると、誠心誠意主人のために働いた者には、解雇又は退隠の際、或は不時の不幸、特に必要な場合に限り元利金を返還するが、若し不正、不穏の行為其他により解雇する時には、返還せずというような箇条があった。たいてい、どこにでも主人が勝手にそ・・・ 黒島伝治 「砂糖泥棒」
・・・これはたしかに単調で重苦しい学校の空気をかき乱して、どこかのすきまから新鮮な風が不時に吹き込んで来たようなものであった。生徒の喜んだことはいうまでもない。おもしろいものが見られ聞かれてその上に午後の課業が休みになるのだから、文学士と蓄音機と・・・ 寺田寅彦 「蓄音機」
・・・明治十九年に両親と祖母に伴われて東海道を下ったときに、途中で祖母が不時の腹痛を起こしたために予定を変えて吉浜で一泊した。ひどい雨風の晩で磯打つ波の音が枕に響いて恐ろしかったのが九歳の幼な心にも忘れ難く深い印象をとどめた。それから熱海へ来て大・・・ 寺田寅彦 「箱根熱海バス紀行」
・・・ 車の中から席を去って出口まで見に行くものもある。「けちけちするない――早く出さねえか――正直に銭を払ってる此輩アいい迷惑だ。」と叫ぶものもある。 不時の停車を幸いに、後れ走せにかけつけた二、三人が、あわてて乗込んだ。その最後の一人・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・然し、平時の生活はどうでもなりはしても、不時の災害の種々な場合を予想してそれを断行し得ない者が幾人あるか分りません。 自分が一旦宣言して、境遇から、或る人間の裡から去ったのに、どうして又病気になったからと云って、おめおめ尾を振って行かれ・・・ 宮本百合子 「ひしがれた女性と語る」
・・・「大丈夫です。不時収入があるんですから――……尤も私のはいつだって不時収入ですが……」 尾世川は、しまってあるステッキをわざわざ戸棚から出し、それを腕にかけて外へ出た。 駅前の広場で、撒水夫がタッタッタッ車を乱暴に引き廻して水を・・・ 宮本百合子 「帆」
出典:青空文庫