・・・『増長驕慢、尚非世俗白衣所宜。』艱難の多いのに誇る心も、やはり邪業には違いあるまい。その心さえ除いてしまえば、この粟散辺土の中にも、おれほどの苦を受けているものは、恒河沙の数より多いかも知れぬ。いや、人界に生れ出たものは、たといこの島に流さ・・・ 芥川竜之介 「俊寛」
・・・何んだかこう世俗を離れて極めて自然な感じがするじゃないか。菖蒲湯に這入って粽を食った時は、僕はいつでも此日本と云う国が嬉しくて堪らなくなるな」 岡村は笑って、「君の様にそう頭から嬉しがって終えば何んでも面白くなるもんだが、矢代君粽の・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・心長閑にこの春光に向かわば、詩人ならざるもしばらく世俗の紛紜を忘れうべきを、春愁堪え難き身のおとよは、とても春光を楽しむの人ではない。 男子家にあるもの少なく、婦女は養蚕の用意に忙しい。おとよは今日の長閑さに蚕籠を洗うべく、かつて省作を・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・ 沼南の五十年の政治家生活が終に台閣の椅子を酬いられなかったのは沼南の志が世俗の権勢でなかったからばかりではない。アレだけの長い閲歴と、相当の識見を擁しながら次第に政友と離れて孤立し、頼みになる腹心も門下生もなく、末路寂寞として僅に廓清・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・それは即ち作者が作品を書くに当って何等一点の世俗的観念が入っていないと云うことを証明している。 現時文壇の批評のあるもの、作品のあるものは、作者が筆を執っている時に果して自己を偽っていないか、世俗的観念が入っていないか疑わざるを得ない。・・・ 小川未明 「動く絵と新しき夢幻」
・・・如何に多くのイデアリストの憧憬に満ちたる青年が、このことからたちまち壮年の世俗的リアリズムに転落したことであろうか。 かりに既婚者の男子が一人の美しき娘を見るのと、未婚者の男子がそうするのとでは、後者の方がはるかに憧憬に満ちたものである・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・管狐という鼠ほどの小さな狐を山より受取って来て、これを使うなどということは世俗のややもすれば伝えることであるが、自分は知らぬ。天狗も荼枳尼には連なることで、愛宕にも太郎坊があれば、飯綱にも天狗嶽という魔所があり、餓鬼曼陀羅のような荼枳尼曼陀・・・ 幸田露伴 「魔法修行者」
・・・人は世俗の借金で自殺することもあれば、また概念の無形の恐怖から自殺することだってあるのです。決闘の次第は次回で述べます。 第四 決闘の勝敗の次第をお知らせする前に、この女ふたりが拳銃を構えて対峙した可憐陰惨、また奇妙で・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・自分のそんな世俗の評語が、芸術家としての相手の誇りを傷けはせぬかと、案じられた。「芸術の制作衝動と、」すこしとぎれた。あとの言葉を内心ひそかにあれこれと組み直し、やっと整理して、さいごにそれをもう一度、そっと口の中で復誦してみて、それから言・・・ 太宰治 「花燭」
・・・ もっとも世俗を気にしている者は、芸術家である。 約束の枚数に達したので、ペンを置き、梨の皮をむきながら、にがり切って、思うことには、「こんなのじゃ、仕様がない。」 太宰治 「思案の敗北」
出典:青空文庫