・・・僕は洗面器を持って庭へ下り、裏の井戸ばたへ顔を洗いに行った。しかし顔を洗った後でも、今しがた見た夢の記憶は妙に僕にこびりついていた。「つまりあの夢の中の鮒は識域下の我と言うやつなんだ。」――そんな気も多少はしたのだった。 ・・・ 芥川竜之介 「海のほとり」
・・・ 一六 水屋 そのころはまた本所も井戸の水を使っていた。が、特に飲用水だけは水屋の水を使っていた。僕はいまだに目に見えるように、顔の赤い水屋の爺さんが水桶の水を水甕の中へぶちまける姿を覚えている。そう言えばこの「水屋・・・ 芥川竜之介 「追憶」
・・・ 仁右衛門がこの農場に這入った翌朝早く、与十の妻は袷一枚にぼろぼろの袖無しを着て、井戸――といっても味噌樽を埋めたのに赤あかさびの浮いた上層水が四分目ほど溜ってる――の所でアネチョコといい慣わされた舶来の雑草の根に出来る薯を洗っていると・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ といいながら、おじさんは井戸ばたに立って、あたりをながめまわしていた。ほんとうに井戸がわまでが真白になっていた。 橋本さんで朝御飯のごちそうになって、太陽が茂木の別荘の大きな槙の木の上に上ったころ、ぼくたちはおじさんに連れられて家・・・ 有島武郎 「火事とポチ」
・・・村の往来のすぐ路端に、百姓家の間にあたかも総井戸のごとくにあり。いつなりけん、途すがら立寄りて尋ねし時は、東家の媼、機織りつつ納戸の障子より、西家の子、犬張子を弄びながら、日向の縁より、人懐しげに瞻りぬ。 甲冑堂 橘・・・ 泉鏡花 「一景話題」
一 柳を植えた……その柳の一処繁った中に、清水の湧く井戸がある。……大通り四ツ角の郵便局で、東京から組んで寄越した若干金の為替を請取って、三ツ巻に包んで、ト先ず懐中に及ぶ。 春は過ぎても、初夏の日の・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・ 冷ややかな空気に触れ、つめたい井戸水に顔を洗って、省作もようやく生気づいた。いくらかからだがしっかりしてきはきたが、まだ痛いことは痛い。起きないうちはわからなかったが、起きて歩いて見ると股根が非常に痛む。とても直立しては歩けない。省作・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・ 奈々子もそれを見に降りてきたのだ。 井戸ばたの流し場に手水をすました自分も、鶏に興がる子どもたちの声に引かされて、覚えず彼らの後ろに立った。先に父を見つけたお児は、「おんちゃんにおんぼしんだ、おんちゃんにおんぼしんだ」 と・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
・・・その庭の片端の僕の方に寄ってるところは、勝手口のあるので、他の方から低い竹垣をもって仕切られていて、そこにある井戸――それも僕の座敷から見える――は、僕の家の人々もつかわせてもらうことになっている。 隣りの家族と言っては、主人夫婦に子供・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・それを知らぬというわけにもいかず、その前夜、井戸の中に身を投げて死んでしまいました。」と申しました。 お姫さまは、あの女が、自分の身がわりになったばかりに死んだことを、たいそうかわいそうに思われました。そして、女の身を投げて死んだという・・・ 小川未明 「お姫さまと乞食の女」
出典:青空文庫