・・・茅葺の屋根はまだ随処に残っていて、住む人は井戸の水を汲んで米を磨ぎ物を洗っている。半農半商ともいうべきそういう人々の庭には梅、桃、梨、柿、枇杷の如き果樹が立っている。 去年の春、わたくしは物買いに出た道すがら、偶然茅葺屋根の軒端に梅の花・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・極の野蛮時代で人のお世話には全くならず、自分で身に纏うものを捜し出し、自分で井戸を掘って水を飲み、また自分で木の実か何かを拾って食って、不自由なく、不足なく、不足があるにしても苦しい顔もせずに我慢をしていれば、それこそ万事人に待つところなき・・・ 夏目漱石 「道楽と職業」
・・・南国の町のように、所々に茂った花樹が生え、その附近には井戸があった。至るところに日影が深く、町全体が青樹の蔭のようにしっとりしていた。娼家らしい家が並んで、中庭のある奥の方から、閑雅な音楽の音が聴えて来た。 大通の街路の方には、硝子窓の・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・あのアポルロの石像のある処の腰掛に腰を掛ける奴もあり、井戸の脇の小蔭に蹲む奴もあり、一人はあのスフィンクスの像に腰を掛けました。丁度タクススの樹の蔭になって好くは見えません。主人。皆な男かい。家来。いえ、男もいますし女もいます。乞食・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・しのゝめや鵜をのがれたる魚浅し鮓桶を洗へば浅き遊魚かな古井戸や蚊に飛ぶ魚の音暗し 魚浅し、音暗しなどいえる警語を用いたるは漢詩より得たるものならん。従来の国文いまだこの種の工夫なし。陽炎や名も知らぬ虫の白き飛・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・一郎は急いで井戸からバケツに水を一ぱいくんで台所をぐんぐんふきました。 それから金だらいを出して顔をぶるぶる洗うと、戸棚から冷たいごはんと味噌をだして、まるで夢中でざくざく食べました。「一郎、いまお汁できるから少し待ってだらよ。何し・・・ 宮沢賢治 「風の又三郎」
・・・それぎり又ぼんやり井戸前の早咲黄菊を眺めている。―― 植村婆さんは可哀そうな気がして来た。「まあお前も、姪のところで悠くり休まっせ。――他人の中よりはいいわな、何てっても血道だもんなあ」 沢や婆は、又返事をしなかった。彼女は手間・・・ 宮本百合子 「秋の反射」
・・・二羽の鷹はどういう手ぬかりで鷹匠衆の手を離れたか、どうして目に見えぬ獲物を追うように、井戸の中に飛び込んだか知らぬが、それを穿鑿しようなどと思うものは一人もない。鷹は殿様のご寵愛なされたもので、それが荼の当日に、しかもお荼所の岫雲院の井戸に・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・彼は黙って裏の井戸傍へ立って来た。が、秋三の冷たい微笑を思い出すと身体が竦んで固まった。彼は秋三に追いついて力限り打ちめしてしまいたかった。恋人との婚姻もこのまま永久に引き延ばしていたかった。そして、安次を最も残忍な方法で放逐して了ったなら・・・ 横光利一 「南北」
・・・星を数えつつ井戸に落ちた人、骨と皮とになるまで黙然として考えた人は史上の立て物ではない。しかしながら過去数千年の人類の経路は一日としてこの問題から離るるを許さなかった。西行はために健脚となり信長は武骨な舞いを舞った。神農もソクラテスもカント・・・ 和辻哲郎 「霊的本能主義」
出典:青空文庫