・・・途中で流れはいくつにもくずれていって、そのへんで人影は少くなった。土堤の斜面はひかげがこくなり、花をつけた露草がいっぱいにしげっている。 つれの、桃色の腰巻をたらして、裾ばしょりしている小娘の方が、ときどきふりかえって三吉の方をにらむ。・・・ 徳永直 「白い道」
・・・畦道をその方に歩いて行く人影のいつか豆ほどに小さくなり、折々飛立つ白鷺の忽ち見えなくなることから考えて、近いようでも海まではかなりの距離があるらしい。 これは堤防の上を歩みながら見る右側の眺望であるが、左側を見れば遠く小工場の建物と烟突・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・堤の上の小さい松の並木、橋の上の人影までが、はっきり絵のように見える。自分は永代橋の向岸で電車を下りた。その頃は殆ど門並みに知っていた深川の大通り。角の蛤屋には意気な女房がいた。名物の煎餅屋の娘はどうしたか知ら。一時跡方もなく消失せてしまっ・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・河に沿うて往きつ来りつする人影は無論ささぬ。――梭の音ははたとやんで、女の瞼は黒き睫と共に微かに顫えた。「凶事か」と叫んで鏡の前に寄るとき、曇は一刷に晴れて、河も柳も人影も元の如くに見われる。梭は再び動き出す。 女はやがて世にあるまじき・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・ 墓地の入り口まで先頭の人影が来ると、吹き消したように消えてしまった。安岡は同時に路面へ倒れた。 墓地の松林の間には、白い旗や提灯が、巻かれもしないでブラッと下がっていた。新しいのや中古の卒塔婆などが、長い病人の臨終を思わせるように・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・中庭を通り抜ける人影がある。それが女の姿で、中庭から町へ出て行く。オオビュルナンはほっと息を衝いた。「そうだ。マドレエヌの所へ友達の女が来ていてそれがやっと今帰って行ったのだな。」こう思ってまた五六分間待った。そのうちそろそろ我慢がし切れな・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・海浜ホテルの前あたりには大分人影があるが、川から此方はからりとしていた。陽炎で広い浜辺が短くゆれている……。川ふちを、一匹黒い犬が嗅ぎ嗅ぎやって来た。防波堤の下に並んで日向ぼっこをしながら、篤介がその犬に向って口笛を吹いた。犬は耳を立て此方・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・ 通りすぎようとする人影に、コリーは同じほどの高さでその顔を向けた。 細いニッケル鎖の首輪が光った。そして、睫毛が長い、というような眼付で凝っとこちらを見ている。 すこし行ってもう一度ふりかえったら、コリーはまだそこにいて、同じ・・・ 宮本百合子 「犬三態」
・・・広い宮殿の廻廊からは人影が消えてただ裸像の彫刻だけが黙然と立っていた。すると、突然ナポレオンの腹の上で、彼の太い十本の指が固まった鉤のように動き出した。指は彼の寝巻を掻きむしった。彼の腹は白痴のような田虫を浮かべて寝衣の襟の中から現れた。彼・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
・・・ある国では寂として人影がない。他の国ではにぎやかに落ち葉の陰からほほえみ掛ける者がある。そのたびごとに子供は強い寂しさや喜びを感じつつ、松林の外の世界を全然忘れている。そういう境地においては実際に初茸は愛らしく、黄茸は品位があり、白茸は豊か・・・ 和辻哲郎 「茸狩り」
出典:青空文庫