・・・何気なく陀多が頭を挙げて、血の池の空を眺めますと、そのひっそりとした暗の中を、遠い遠い天上から、銀色の蜘蛛の糸が、まるで人目にかかるのを恐れるように、一すじ細く光りながら、するすると自分の上へ垂れて参るのではございませんか。陀多はこれを見る・・・ 芥川竜之介 「蜘蛛の糸」
・・・僕は人目には平然と巻煙草を銜えていたものの、だんだん苛立たしさを感じはじめた。「莫迦! 何を話しているんだ?」「何、きょう嶽麓へ出かける途中、玉蘭に遇ったことを話しているんだ。それから……」 譚は上脣を嘗めながら、前よりも上機嫌・・・ 芥川竜之介 「湖南の扇」
・・・……その恋人同士の、人目のあるため、左右の谷へ、わかれわかれに狩入ったのが、ものに隔てられ、巌に遮られ、樹に包まれ、兇漢に襲われ、獣に脅かされ、魔に誘われなどして、日は暗し、……次第に路を隔てつつ、かくて両方でいのちの限り名を呼び合うのであ・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・……参詣の散った夜更には、人目を避けて、素膚に水垢離を取るのが時々あるから、と思うとあるいはそれかも知れぬ。 今境内は人気勢もせぬ時、その井戸の片隅、分けても暗い中に、あたかも水から引上げられた体に、しょんぼり立った影法師が、本堂の正面・・・ 泉鏡花 「菎蒻本」
・・・おとよさんとおはまの風はたしかに人目にとまるのである。まアきれいな稲刈りだこととほめるものもあれば、いやにつくってるなアとあざけるものもある。おはまのやつが省作さんに気があるからおかしいやというようなのも聞こえる。おはまはじろり悪口いう方を・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・民子はその後時折僕の書室へやってくるけれど、よほど人目を計らって気ぼねを折ってくる様な風で、いつきても少しも落着かない。先に僕に厭味を云われたから仕方なしにくるかとも思われたが、それは間違っていた。僕等二人の精神状態は二三日と云われぬほど著・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・アアいう人目に着く粧いの婦人に対してはとかくにあらぬ評判をしたがるもんだから、我々は沼南夫人に顰蹙しながらも余りに耳を傾けなかった。が、沼南の帰朝が近くなるに従って次第に風評が露骨になって、二、三の新聞の三面に臭わされるようになった。 ・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・ 彼はせめて貨車の中にでも身を隠すことができたら、幸福だと考えましたので、人目をしのんで、貨車に乗り込もうとしますと、中から、思いがけなく、「だれだ?」と声がしました。そして大男が龍雄をとらえました。龍雄はもう逃れる途はないと知・・・ 小川未明 「海へ」
・・・「自分のような人目をひかない花には、どうして、そんなに空想するような、きれいなちょうがきて止まることがあろう?」 こう、花は悲しく笑ったこともありました。重い荷を車に積んでゆく、荷馬車の足跡や、轍から起こる塵埃に頭が白くなることもあ・・・ 小川未明 「くもと草」
・・・ 夜になると、幾子はますます彼に話しかけて来て、人目に立つくらいだった。入山は憤慨して帰ってしまった。 入山が帰って間もなく、幾子は、「あたし、あなたに折入って話したいことがあるんだけど……。その辺一緒に歩いて下さらない」 ・・・ 織田作之助 「四月馬鹿」
出典:青空文庫