・・・何故もっとしゃんと、――この頃は相当年輩の人だって随分お洒落で、太いセルロイドの縁を青年くさく皺の上に見せているのに、――まるでその人と来たら、わざとではないかとはじめ思った、思いたかったくらい、今にもずり落ちそうな、ついでに水洟も落ちそう・・・ 織田作之助 「天衣無縫」
・・・ そこは渡辺橋の南詰を二三軒西へ寄った川っぷちで、ふと危そうな足場だったから、うしろから見ると、今にも川へ落ちそうだった。 豹吉はその男の背中を見ていると、妙にうずうずして来た。 今日の蓋あけに出くわしたその男の相手に、何か意表・・・ 織田作之助 「夜光虫」
・・・そこの今にも倒れそうになっている古板塀に縄を張って、朝顔がからましてあった。それがまた非常な勢いで蔓が延びて、先きを摘んでも摘んでもわきから/\と太いのが出て来た。そしてまたその葉が馬鹿に大きくて、毎日見て毎日大きくなっている。その癖もう八・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・そして今にも襟髪を掴むか、今にも崖から突き落とすか、そんな恐怖で息も止まりそうになっているんです。しかし僕はやっぱり窓から眼を離さない。そりゃそんなときはもうどうなってもいいというような気持ですね。また一方ではそれがたいていは僕の気のせいだ・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
……らすほどそのなかから赤や青や朽葉の色が湧いて来る。今にもその岸にある温泉や港町がメダイヨンのなかに彫り込まれた風景のように見えて来るのじゃないかと思うくらいだ。海の静かさは山から来る。町の後ろの山へ廻った陽がその影を徐々・・・ 梶井基次郎 「海 断片」
・・・風が強く吹く、林は鳴る、武蔵野は暮れんとする、寒さが身に沁む、その時は路をいそぎたまえ、顧みて思わず新月が枯林の梢の横に寒い光を放っているのを見る。風が今にも梢から月を吹き落としそうである。突然また野に出る。君はその時、 山は暮れ・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・彼は、今にも凋んだ唇を曲げて、黄色い歯糞のついた歯を露出して泣きだしそうだった。 左右の腕は、憲兵によって引きたてられてさきに行っている。が、胴体と脚は、斜に後方に残っていた。一人が剣鞘で尻を殴った。しかし老人は、感覚を失ったものゝのよ・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・或朝などは怖々ながらも、また今にも吠えられるか噛みつかれるかと思って、其犬の方ばかり見て往ったものだから、それに気をとられて路の一方の溝の中へ落ちたことがあった。別段怪我もしなかったが、身体中汚い泥染れになって叱られたことがある。其後親戚の・・・ 幸田露伴 「少年時代」
・・・遠慮のない大陸的なヤケに熱い太陽で、その辺から今にもポッポッと火が出そうに思われた。それで、その高地を崩していた土方は、まるで熱いお湯から飛びだしてきたように汗まみれになり、フラフラになっていた。皆の眼はのぼせて、トロンとして、腐った鰊のよ・・・ 小林多喜二 「人を殺す犬」
・・・ 気の早い子供らは、八つ手や山茶花を車に積んで今にも引っ越して行くような調子に話し合った。「そんなにお前たちは無造作に考えているのか。」と、私はそこにある籐椅子を引きよせて、話の仲間にはいった。「とうさんぐらいの年齢になってごらん、・・・ 島崎藤村 「嵐」
出典:青空文庫