・・・一度左近が兵衛らしい梵論子の姿に目をつけて、いろいろ探りを入れて見たが、結局何の由縁もない他人だと云う事が明かになった。その内にもう秋風が立って、城下の屋敷町の武者窓の外には、溝を塞いでいた藻の下から、追い追い水の色が拡がって来た。それにつ・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・その人を除けものにしておいて、他人にその噂をさせて平気で聞いていることはどうしても彼にはできないと思った。 ともかく、彼は監督に頼んで執務室に火を入れてもらって、小作人を一人一人そこに呼び入れた。そして農場の経営に関する希望だけを聞くこ・・・ 有島武郎 「親子」
・・・そうしてそれが過ぎてしまえば、ふたたび他人同志になるのである。 二 むろん思想上の事は、かならずしも特殊の接触、特殊の機会によってのみ発生するものではない。我々青年は誰しもそのある時期において徴兵検査のために非常な危・・・ 石川啄木 「時代閉塞の現状」
・・・ こういえば、理窟もつけよう、またどうこうというけれどね、年よりのためにも他人の交らない方が気楽で可いかも知れません。お民さん、貴女がこうやって遊びに来てくれたって、知らない婦人が居ようより、阿母と私ばかりの方が、御馳走は届かないにした・・・ 泉鏡花 「女客」
・・・老なる問題は他人の問題ではない、老は人生の終焉である。何人もまぬかるることのできない、不可抗的の終焉である。人間はいかにしてその終焉を全うすべきか、人間は必ず泣いて終焉を告げねばならぬものならば、人間は知識のあるだけそれだけ動物におとるわけ・・・ 伊藤左千夫 「紅黄録」
・・・かすり傷ぐらい受けたて、その血が流れとるのを自分は知らんのやし、他人も亦それが見えんのも尤もや。強い弾丸が当って、初めて気が付くんや。それに就いて面白い話がある。僕のではない、他の中隊の一卒で、からだは、大けかったけど、智慧がまわりかねた奴・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・ が、この円転滑脱は天禀でもあったが、長い歳月に段々と練上げたので、ことさらに他人の機嫌を取るためではなかった。その上に余り如才がなさ過ぎて、とかく一人で取持って切廻し過ぎるのでかえって人をテレさせて、「椿岳さんが来ると座が白ける」と度・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・それでもしわれわれにジョン・バンヤンの精神がありますならば、すなわちわれわれが他人から聞いたつまらない説を伝えるのでなく、自分の拵った神学説を伝えるでなくして、私はこう感じた、私はこう苦しんだ、私はこう喜んだ、ということを書くならば、世間の・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・女房はその自分の姿を見て、丁度他人を気の毒に思うように、その自分の影を気の毒に思って、声を立てて泣き出した。 きょうまで暮して来た自分の生涯は、ぱったり断ち切られてしまって、もう自分となんの関係もない、白木の板のようになって自分の背後か・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・今の世の中の博愛とか、慈善とかいうものは、他人が生活に苦しみ、また境遇に苦しんでいる好い加減の処でそれを救い、好い加減の処でそれを棄てる。そして、終にこの人間に窮局まで達せしめぬ。私はこんな行為を愛ということは出来ぬ。本当の愛があれば、その・・・ 小川未明 「愛に就ての問題」
出典:青空文庫