・・・と言うのは他意のある訣ではない。前借の見込みも全然絶え、父母兄弟とも喧嘩をした今、たとえ東京へ出かけたにもせよ、金の出来ないことは明らかである。すると十円を返すためにはこの十円札を保存しなければならぬ。この十円札を保存するためには、――保吉・・・ 芥川竜之介 「十円札」
・・・ ゆえに渠は泰然と威厳を存して、他意なく、懸念なく、悠々としてただ前途のみを志すを得るなりけり。 その靴は霜のいと夜深きに、空谷を鳴らして遠く跫音を送りつつ、行く行く一番町の曲がり角のややこなたまで進みけるとき、右側のとある冠木門の・・・ 泉鏡花 「夜行巡査」
・・・また、やあ君か、おまわりさんかと思った、と他意なく驚く友人もありました。北方の海軍士官は、情無く思いました。やがて、その外套を止しました。さらに一枚、造りました。こんどは、黒のラシャ地を敬遠して、コバルト色のセル地を選び、それでもって再び海・・・ 太宰治 「おしゃれ童子」
・・・私はあなたを、少しの駈引きも無く、厳粛に根強く、尊敬しているつもりでありますけれども、それでも、先生、とお呼びする事に就いては、たいへんこだわりを感じます。他意はございません。ただ、気持を、いつもあなたの近くに置きたいからです。私は肉親を捨・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・僕は他意なく失笑した。翌る朝、青扇夫婦はたくさんの世帯道具をトラックで二度も運ばせて引越して来たのであるが、五十円の敷金はついにそのままになった。よこすものか。 引越してその日のひるすぎ、青扇は細君と一緒に僕の家へ挨拶しに来た。彼は黄色・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・とにこにこ笑いながらハンケチで額の汗を拭っている光景を思うと、私は他意なく微笑む。ほんとによかったと思われる。芥川龍之介を少し可哀そうに思ったが、なに、これも「世間」だ。石川氏は立派な生活人だ。その点で彼は深く真正面に努めている。 ただ・・・ 太宰治 「川端康成へ」
・・・ブラゼンバートは、この事実を知って大笑した。他意は無かった。ただ、おかしかったのである。 アグリパイナは、ほとんど復讐を断念していた。この子だけは、と弱草一すじのたのみをそこにつないだ。その子は、夏の真昼に生れた。男子であった。膚やわら・・・ 太宰治 「古典風」
・・・ケサ、快晴、ハネ起キテ、マコト、スパルタノ愛情、君ノ右頬ヲ二ツ、マタ三ツ、強ク打ツ。他意ナシ。林房雄トイウ名ノ一陣涼風ニソソノカサレ、浮カレテナセル業ニスギズ。トリツク怒濤、実ハ楽シキ小波、スベテ、コレ、ワガ命、シバラクモ生キ伸ビテミタイ下・・・ 太宰治 「創生記」
・・・主張の長所を認むるの点において智者である。他意なく人のために尽さんとするの点において善人である。ただ自他の関係を知らず、眼を全局に注ぐ能わざるがため、わが縄張りを設けて、いい加減なところに幅を利かして満足すべきところを、足に任せて天下を横行・・・ 夏目漱石 「作物の批評」
・・・私は私共の持たない、若しくは持たされない権威の多くを所有する者、所有する価値ある者として、他意なく彼女等を尊敬致します。又自分等の将来に其等の権能を期待も致します。然し、私は、此からもう一歩進んで、其等種々の優越に就てもう少し深い省察を試み・・・ 宮本百合子 「C先生への手紙」
出典:青空文庫