・・・ 膝きりの短い外套を着た五十すぎくらいの丸顔の男のひとが、少しも笑わずに私に向ってちょっと首肯くように会釈しました。 女のほうは四十前後の痩せて小さい、身なりのきちんとしたひとでした。「こんな夜中にあがりまして」 とその女の・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・大将はあいまいに笑った。「まあ、ご隠居で。」「手きびしい。一つ飲み給え。」「もうたくさん。」大将は会釈をして立ち上りかけた。「それでは、これで失礼します。」「待った、待った。」先生は極度にあわてて大将を引きとめ、「どうしたという・・・ 太宰治 「黄村先生言行録」
・・・いつも逢う顔に違ったところで逢うと、なんだか他人でないような気がするものだが、男もそう思ったとみえて、もう少しで会釈をするような態度をして、急いだ歩調をはたと留めた。娘もちらとこっちを見て、これも、「あああの人だナ、いつも電車に乗る人だナ」・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・たまたま来客でもあって応接していると、肝心な話の途中でもなんでも一向会釈なしにいきなり飛込んで来て直ちに忙わしく旋回運動を始めるのであるが、時には失礼にも来客の頭に顔に衝突し、そうしてせっかく接待のために出してある茶や菓子の上に箔の雪を降ら・・・ 寺田寅彦 「烏瓜の花と蛾」
・・・たまたま来客でもあって応接していると、肝心な話の途中でもなんでもいっこう会釈なしにいきなり飛び込んで来て直ちにせわしく旋回運動を始めるのであるが、時には失礼にも来客の頭に顔に衝突し、そうしてせっかく接待のために出してある茶や菓子の上に箔の雪・・・ 寺田寅彦 「からすうりの花と蛾」
・・・深水は最初に彼らしい勿体ぶりと、こっちが侮辱されるような、意味ありげな会釈をのこして、小径のむこうに去っていったが、三吉は何故だかすこし落ちついていた。二人きりになってしまったのに、さっきまでの、何ときりだすかという焦慮と不安は、だいぶうす・・・ 徳永直 「白い道」
・・・芸者の一人と踊子の栄子とは互に顔を見て軽く目で会釈をしたなり行きすぎた。その様子が双方とも何となく気まりが悪いというように、また話がしたいが何か遠慮することがあるとでもいうように見受けられた。角町の角をまがりかけた時、芸者の事をきくと、栄子・・・ 永井荷風 「草紅葉」
・・・と銀杏返は顔を真赤に腰をかがめて会釈しようとすると、電車の動揺でまたよろけ掛ける。「ああ、こわい。」「おかけなさい。姉さん。」 薄髯の二重廻が殊勝らしく席を譲った。「どうもありがとう……。」 しかし腰をかけたのは母らしい・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・「はじめて逢うても会釈はなかろ」と拇指の穴を逆に撫でて澄ましている。「見た事も聞いた事もないに、これだなと認識するのが不思議だ」と仔細らしく髯を撚る。「わしは歌麻呂のかいた美人を認識したが、なんと画を活かす工夫はなかろか」とまた女の方を・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・女は領を延ばして盾に描ける模様を確と見分けようとする体であったが、かの騎士は何の会釈もなくこの鉄鏡を突き破って通り抜ける勢で、いよいよ目の前に近づいた時、女は思わず梭を抛げて、鏡に向って高くランスロットと叫んだ。ランスロットは兜の廂の下より・・・ 夏目漱石 「薤露行」
出典:青空文庫