・・・吉田はそんな女にちっとも嘘を言う気持はなかったので、そこまで自分の住所を打ち明かして来たのだったが、「ほ、その二丁目の? 何番地?」 といよいよその最後まで同じ調子で追求して来たのを聞くと、吉田はにわかにぐっと癪にさわってしまった。・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・ 心の弱い者が悪事を働いた時の常として、何かの言訳を自分が作らねば承知の出来ないが如く、自分は右の遺失た人の住所姓名が解るや直ぐと見事な言訳を自分で作って、そして殆ど一道の光明を得たかのように喜こんだ。 一先拝借! 一先拝借して自分・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・そして宿所がきまるや、さっそく築地何町何番地、何の某方という桂の住所を訪ねた。この時二人はすでに十九歳。 下 午後三時ごろであった。僕は築地何町を隅から隅まで探して、ようやくのことで桂の住家を探しあてた。容易に分から・・・ 国木田独歩 「非凡なる凡人」
・・・一週間と同じ処に住んでいられないために、転々と住所をかえた。これ等のことが分らずにいて、長いうちにはウンとこたえていた。――それで、警察に六十日居り、それから刑務所と廻ってくるうちに、俺は自分の四肢がスンなりと肥えてゆくのを感じた。俺の場合・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・ 今の住所へは私も多くの望みをかけて移って来た。婆やを一人雇い入れることにしたのもその時だ。太郎はすでに中学の制服を着る年ごろであったから、すこし遠くても電車で私の母校のほうへ通わせ、次郎と末子の二人を愛宕下の学校まで毎日歩いて通わ・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・ 私はその払戻し用紙に四拾円也としたため、それから通帳の番号、住所、氏名を書き記す。通帳には旧住所の青森市何町何番地というのに棒が引かれて、新住所の北津軽郡金木町何某方というのがその傍に書き込まれていた。青森市で焼かれてこちらへ移って来・・・ 太宰治 「親という二字」
・・・しかるに、昨年の秋、山田君から手紙が来て、小生は呼吸器をわるくしたので、これから一箇年、故郷に於いて静養して来るつもりだ、ついては大隅氏の縁談は貴君にたのむより他は無い、先方の御住所は左記のとおりであるから、よろしく聯絡せよ、という事であっ・・・ 太宰治 「佳日」
・・・「裏に、ここの住所も書いて置きましたから、もし、適当のかたが見つかったら、ごめんどうでも、ハガキか何かで、ちょっと教えて下さいまし。ほんとうに、ごめいわくさまです。子供が幾人あっても、私のほうは、かまいませんから。ほんとうに。」 私は黙・・・ 太宰治 「鴎」
・・・残された名刺には、住所はなくただ木下青扇とだけ平字で印刷され、その文字の右肩には、自由天才流書道教授とペンで小汚く書き添えられていた。僕は他意なく失笑した。翌る朝、青扇夫婦はたくさんの世帯道具をトラックで二度も運ばせて引越して来たのであるが・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・相州鎌倉二階堂。住所も、忘れてはいなかった。三度、ながい手紙をさしあげて、その都度、あかるい御返事いただいた。私がその作家を好きであるのと丁度おなじくらいに、その作家もまた私を好きなのだ、といつのまにか、ひとりできめてしまっていた。のこり少・・・ 太宰治 「狂言の神」
出典:青空文庫