・・・不意に飛び立って水面をすれすれに飛びながら何かしら啄んでは空中に飛び上がる。水面を掠めてとぶ時に、あの長い尾の尖端が水面を撫でて波紋を立てて行く。それが一種の水平舵のような役目をするように見える。それにしてもこの鳥が地上に下りている時に絶え・・・ 寺田寅彦 「浅間山麓より」
・・・ 私は何かしら寂しい物足りなさを感じながら、何か詩歌の話でもしかけようかと思ったが、差し控えていた。のみならず、実行上のことにおいても、彼はあまり単純であるように思われた。自分の仕えている主人と現在の職業のほかに、自分の境地を拓いてゆく・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・ やがて弁当の支度を母親に任かして、お絹は何かしら黒っぽい地味な単衣に、ごりごりした古風な厚ぼったい帯を締めはじめた。「ばかにまた地味づくりじゃないか」道太がわざと言うと、お絹は処女のように羞かんでいた。 道太は今朝辰之助に電話・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・ ――裂けめだ。何かしら大きな裂けめだ。 ボルの理論は、まだしっかりつかめぬながら、小野から日ごとに離れてゆく自分を、三吉は感じている。しかもその大きな裂けめにおちこんで、しかもボルの学生たちとは、つまり土地で“五高の学生さん”とい・・・ 徳永直 「白い道」
・・・こうした種類の人間は、絶えず何かしらしゃべってないと寂しいのだ。反対に孤独癖の人間は、黙って瞑想に耽ることを楽しみとする。西洋人と東洋人とを比較すると、概してみな我々東洋人は、非社交的な瞑想人種に出来上ってる。孤独癖ということは、一般的には・・・ 萩原朔太郎 「僕の孤独癖について」
・・・ それどころではない、深谷はできることならば、その部屋に一人でいたかった。もし許すならばその中学の寄宿舎全体に、たった一人でいたかった。 何かしら、人間ぎらいな、人を避け、一人で秘密を味わおうという気振りが深谷にあることは、安岡も感・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・ それは空気の中に何かしらそらぞらしい硝子の分子のようなものが浮んできたのでもわかりましたが第一東の九つの小さな青い星で囲まれたそらの泉水のようなものが大へん光が弱くなりそこの空は早くも鋼青から天河石の板に変っていたことから実にあきらか・・・ 宮沢賢治 「インドラの網」
・・・学生の二十四時間は、その第一時から第二十四時迄が、何かしら社会的な視線のもとにさらし出されているような感じになって来た。学生は、学生であるということで、自身の時間というものへの愛着を必要としないものとされて来ているようなところがある。未成年・・・ 宮本百合子 「家庭と学生」
・・・ 情なくも時の力で忘れた時も尚その文字を見たならその時の気持に返れるだろうと私はこれを書くのだろう。 何かしら只に置かれない気持が私にこれを書かせる。 私が年老いて心持も頭も疲れた時、尚十幾つか若くて私の世話もして呉れ、慰めても・・・ 宮本百合子 「悲しめる心」
・・・自殺したものとなるととかく何かしら忘れて来るものだ。そのために娑婆のものが迷惑するかも知れない。どうだな。」役人はこわい目をしてツァウォツキイを見た。自殺者を見るには、いつもこんな目附をするのである。「そうですね。忘れたと云えば、子供の・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
出典:青空文庫