・・・すべての偉人の問いがそれに帰宗するように、日蓮もまたそれを問い、その解決のための認識を求めて修学に出発したのであった。 三 遍歴と立宗 十二歳にして救世の知恵を求めて清澄山に登った日蓮は、諸山遍歴の後、三十二歳の四月・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・「それは修学期の最後における恐ろしい比武競技のように、遥かの手前までもその暗影を投げる。生徒も先生も不断にこの強制的に定められた晴れの日の準備にあくせくしていなければならない。またその試験というのが人工的に無闇に程度を高く捻じり上げたもので・・・ 寺田寅彦 「アインシュタインの教育観」
・・・茶褐色に変ったげんげやばらの花束や半分喰い欠いだ林檎もあった。修学証書や辞令書のようなものの束ねたのを投げ出すと黴臭い塵が小さな渦を巻いて立ち昇った。 定規のようなものが一把ほどあるがそれがみんな曲りくねっている。升や秤の種類もあるが使・・・ 寺田寅彦 「厄年と etc.」
・・・ けだしこの時といえども、通商の国は和蘭一州に限り、その来舶するや、ただ西陲の一長崎のみなれば、なお書籍のとぼしきに論なく、すべて修学の道、はなはだ便ならざれば、未だ隔靴の憾を免れず。然るに嘉永の季、亜美利駕人、我に渡来し、はじめて和親・・・ 福沢諭吉 「慶応義塾の記」
・・・をこしらえたのもこのミュンヘン修学時代であるし、自分の芸術的表現はスケッチや銅版画に最もよく発揮されることを自覚して、塗ること、即ち油絵具の美しく派手な効果を狙うことは、自分の本来の領域でないという確信を得たのも同じ時代のことである。 ・・・ 宮本百合子 「ケーテ・コルヴィッツの画業」
・・・学科試験には優良の成績で及第したが、体格検査の時、風邪をひいていたため、病弱修学に堪えざるものとして不合格となる。体格の再検査を願ったが許されなかった。」 一九〇九年。三度高等学校の入学試験を受け、一高文科に入学。 一九一〇年。ある・・・ 宮本百合子 「山本有三氏の境地」
出典:青空文庫