・・・おれははっと思うと、がっかりしてその椅子に倒れ掛かった。ボオイが水を一ぱい持って来てくれた。 門番がこう云った。「いや、大した手数でございましたそうです。しかしまあ、万事無事に済みまして結構でございました。すぐに見付かればよろしいのでご・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・バスが発車してまもなく横合いからはげしく何物かが衝突したと思うと同時に車体が傾いて危うく倒れそうになって止まった。西洋人のおおぜい乗った自用車らしいのが十字路を横から飛び出してわれわれのバスの後部にぶつかったのであった。この西洋人の車は一方・・・ 寺田寅彦 「あひると猿」
・・・忘れもしねえ、暑い土用の最中に、餒じい腹かかえて、神田から鉄砲洲まで急ぎの客人を載せって、やれやれと思って棍棒を卸すてえとぐらぐらと目が眩って其処へ打倒れた。帰りはまた聿駄天走りだ。自分の辛いよりか、朝から三時過ぎまでお粥も啜らずに待ってい・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・幸いこんにゃく桶は水がこぼれただけだったが、私の尻餅ついたところや、桶のぶっつかったところは、ちょうど紫色の花をつけたばかりの茄子が、倒れたり千切れたりしているのであった。「なにさ、おやおや――」 玄関の格子戸がけたたましくあいて、・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
・・・玉蜀黍の茎は倒れて見通す稲田の眺望は軟かに黄ばんで来た。いつの日にか、わたくしは再び妙林寺の松山に鳶の鳴声をきき得るのであろう。今ごろ備中総社の町の人たちは裏山の茸狩に、秋晴の日の短きを歎いているにちがいない。三門の町を流れる溝川の水も物洗・・・ 永井荷風 「草紅葉」
・・・憫な瞽女は倒れ相にしては徐に歩を運ぶ。体がへなへなとして見える。大勢はそこここから仮声を出して揶揄おうとする。こういう果敢ない態度が酷く太十の心を惹いた。大勢はまだ暫くがやがやとして居たが一人の手から白紙に包んだ纏頭が其かしらの婆さんの手に・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・繊き身の寄り添わば、幹吹く嵐に、根なしかずらと倒れもやせん。寄り添わずば、人知らずひそかに括る恋の糸、振り切って君は去るべし。愛溶けて瞼に余る、露の底なる光りを見ずや。わが住める館こそ古るけれ、春を知る事は生れて十八度に過ぎず。物の憐れの胸・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・ 一体こいつ等はどんな星の下に生れて、どんな廻り合せになっているのだ。だが、私は此事実を一人で自分の好きなように勝手に作り上げてしまっていたのだろうか。 倒れていた男はのろのろと起き上った。「青二才奴! よくもやりやがったな。サ・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・西宮がびッくりして声をかけようとした時、吉里はううんと反ッて西宮へ倒れかかッた。 折よく入ッて来た小万は、吉里の様子にびっくりして、「えッ、どうおしなの」「どうしたどころじゃアない。早くどうかしてくれ。どうも非常な力だ」「しッか・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・喰い殺した罪が亡びる、二個所参れば二人喰い殺した罪が亡びるようにと、南無大師遍照金剛と吠えながら駈け廻った、八十七個所は落ちなく巡って今一個所という真際になって気のゆるんだ者か、そのお寺の門前ではたと倒れた、それを如何にも残念と思うた様子で・・・ 正岡子規 「犬」
出典:青空文庫