・・・ 明治二十五年の『女学雑誌』と云えば、元年生れであった父は、二十五歳の青年になっていたわけである。進歩的な気質の青年らしく、父は『女学雑誌』などをも読んでいたのだろうか。二人の妹があったから、その妹たちに、その雑誌のことを話したり、読ま・・・ 宮本百合子 「本棚」
マクシム・ゴーリキイは一八六八年、日本の明治元年に、ヴォルガ河の岸にあるニージュニ・ノヴゴロドに生れました。父親は早く死に、勝気で美しい母はよそへ再婚し、おさないゴーリキイは祖父の家で育ったのですが、この子供時代の生活が、・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイについて」
・・・ 二十三で権中納言、二十七で従二位中宮太夫となった道長は、三十歳の長徳元年、左近衛の大将を兼ねるようになったが、その前後に、大臣公卿が夥しく没した。その年のうちにも三月二十八日に閑院大納言、四月十日には中関白。小一條左大将済時卿は四月二・・・ 宮本百合子 「余録(一九二四年より)」
・・・ 父は明治元年に米沢で生れた。十六の年初めて英語の本というものを手にとったが、絵のところが出て来て始めてそれまで其の本を逆さまにして見ていたことが分った。俺の子供の時分はひどいものだった、そんな話の出たこともあった。大学生時代、うちの経・・・ 宮本百合子 「わが父」
・・・二年立って、正保元年の夏、又七郎は創が癒えて光尚に拝謁した。光尚は鉄砲十挺を預けて、「創が根治するように湯治がしたくばいたせ、また府外に別荘地をつかわすから、場所を望め」と言った。又七郎は益城小池村に屋敷地をもらった。その背後が藪山である。・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・ 父才八は永禄元年出生候て、三歳にして怙を失い、母の手に養育いたされ候て人と成り候。壮年に及びて弥五右衛門景一と名告り、母の族なる播磨国の人佐野官十郎方に寄居いたしおり候。さてその縁故をもって赤松左兵衛督殿に仕え、天正九年千石を給わり候・・・ 森鴎外 「興津弥五右衛門の遺書」
・・・寛永元年五月安南船長崎に到着候節、当時松向寺殿は御薙髪遊ばされ候てより三年目なりしが、御茶事に御用いなされ候珍らしき品買求め候様仰含められ、相役と両人にて、長崎へ出向き候。幸なる事には異なる伽羅の大木渡来致しおり候。然るところその伽羅に本木・・・ 森鴎外 「興津弥五右衛門の遺書(初稿)」
・・・ 元文元年の秋、新七の船は、出羽国秋田から米を積んで出帆した。その船が不幸にも航海中に風波の難に会って、半難船の姿になって、横み荷の半分以上を流失した。新七は残った米を売って金にして、大阪へ持って帰った。 さて新七が太郎兵衛に言うに・・・ 森鴎外 「最後の一句」
・・・ その翌年の文化六年に、越前国丸岡の配所で、安永元年から三十七年間、人に手跡や剣術を教えて暮していた夫伊織が、「三月八日浚明院殿御追善の為、御慈悲の思召を以て、永の御預御免仰出され」て、江戸へ帰ることになった。それを聞いたるんは、喜んで・・・ 森鴎外 「じいさんばあさん」
・・・夏目漱石は西田先生の戸籍面の生年である明治元年の生まれであるが、明治四十年に朝日新聞にはいって、続き物の小説を書き始めた時には、わたくしたちは実際老大家だと思っていた。だから明治四十二年に正味の年が四十歳であった西田先生も、同じく老大家に見・・・ 和辻哲郎 「初めて西田幾多郎の名を聞いたころ」
出典:青空文庫