・・・その洋館の入り口には、酒保が今朝から店を開いているからすぐわかる。その奥に入って、寝ておれとのことだ。 渠はもう歩く勇気はなかった。銃と背嚢とを二人から受け取ったが、それを背負うと危く倒れそうになった。眼がぐらぐらする。胸がむかつく。脚・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・ 約束の時刻に尋ねて行った。入口で古風な呼鈴の紐を引くと、ひとりで戸があいた。狭い階段をいくつも上っていちばん高い所にB君の質素な家庭があった。二間だけの住居らしい。食堂兼応接間のようなところへ案内された。細君は食卓に大きな笊をのせて青・・・ 寺田寅彦 「異郷」
・・・帰るたびに入りつけた料理屋へついて、だだっ広い石畳の入口から、庭の飛石を伝っていくと、そこに時代のついた庭に向いて、古びた部屋があった。道太は路次の前に立って、寂のついた庭を眺めていた。この町でも別にいいというほどの庭ではなかったけれど、乾・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・もちろん私はお勝手口の方へその小さい菜園の茄子や胡瓜にこんにゃく桶をぶっつけぬように注意しながらいったのであるが、気がつくと、お勝手口の入口へ、大きな犬がねているのであった。黒白斑らの、仔馬ほどもあるのが、地べたへなげだした二本の前脚に大き・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
・・・まず山王台東側の崖に繁っていた樹木の悉く焼き払われた後、崖も亦その麓をめぐる道路の取ひろげに削り去られ、セメントを以て固められたので、広小路のこなたから眺望する時、公園入口の趣は今までとは全く異るようになった。池の端仲町の池に臨んだ裏通も亦・・・ 永井荷風 「上野」
・・・と室の入口まで歩を移してことさらに厚き幕を揺り動かして見る。あやしき響は収まって寂寞の故に帰る。「宵見し夢の――夢の中なる響の名残か」と女の顔には忽ち紅落ちて、冠の星はきらきらと震う。男も何事か心躁ぐ様にて、ゆうべ見しという夢を、女に物・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・金沢では外国人は多く公園から小立野へ入る入口の処に住んでいる。外国人といっても僅の数に過ぎないが。私はその頃ちょうど小立野の下に住んでいた。夕方招かれた時刻の少し前に、家を出て、坂を上り、ユンケル氏の宅へ行ったのである。然るにどうしたことか・・・ 西田幾多郎 「アブセンス・オブ・マインド」
・・・方向観念の錯誤から、すぐ目の前にある門の入口が、どうしても見つからなかったのである。家人は私が、まさしく狐に化かされたのだと言った。狐に化かされるという状態は、つまり心理学者のいう三半規管の疾病であるのだろう。なぜなら学者の説によれば、方角・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・私は入口に佇んでいたが、やがて眼が闇に馴れて来た。何にもないようにおもっていた室の一隅に、何かの一固りがあった。それが、ビール箱の蓋か何かに支えられて、立っているように見えた。その蓋から一方へ向けてそれで蔽い切れない部分が二三尺はみ出してい・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・』 若子さんと私が異口同音に斯う云って、云合せた様に其処を去ろうとしますと、先刻入口の処で見掛けた彼の可哀相な女の人が、其処に来合せたのでした。私は憎い人と可愛い人が、其処に集ってる様な気がして居ました。『あらッ、プラットフォームに・・・ 広津柳浪 「昇降場」
出典:青空文庫