・・・雨は煙のようで、遠くもない八幡の森や衣笠山もぼんやりにじんだ墨絵の中に、薄く萌黄をぼかした稲田には、草取る人の簑笠が黄色い点を打っている。ゆるい調子の、眠そうな草取り歌が聞こえる。歌の言葉は聞き取れぬが、単調な悲しげな節で消え入るように長く・・・ 寺田寅彦 「竜舌蘭」
・・・現在大楼ト称スル者今其ノ二三ヲ茲ニ叙スレバ即曰ク松葉楼曰ク甲子楼曰ク八幡楼、曰ク常盤楼、曰ク姿楼、曰ク三木楼等、維們最モ群ヲ出ヅ。漸次之ニ序グ者、則チ曰ク大磯屋、曰ク勝松葉、曰ク湊屋、曰ク林屋、曰ク新常磐屋、曰ク吉野屋、曰ク伊住屋、曰ク武蔵・・・ 永井荷風 「上野」
・・・また野菜を買いに八幡から鬼越中山の辺まで出かけてゆく。それはいずこも松の並木の聳えている砂道で、下肥を運ぶ農家の車に行き逢う外、殆ど人に出会うことはない。洋服をきたインテリ然たる人物に行逢うことなどは決してない。しかし人家はつづいている。人・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・ 八幡の町の梨畠に梨は取り尽され、葡萄棚からは明るく日がさすようになった。玉蜀黍の茎は倒れて見通す稲田の眺望は軟かに黄ばんで来た。いつの日にか、わたくしは再び妙林寺の松山に鳶の鳴声をきき得るのであろう。今ごろ備中総社の町の人たちは裏山の・・・ 永井荷風 「草紅葉」
・・・あの穴八幡の坂をのぼってずっと行くと、源兵衛村のほうへ通う分岐道があるだろう。あすこをもっと行くと諏訪の森の近くに越後様という殿様のお邸があった。あのお邸の中に桑木厳翼さんの阿母さんのお里があって鈴木とかいった。その鈴木の家の息子がおりおり・・・ 夏目漱石 「僕の昔」
・・・鼠色に洗い出された賽銭箱の上に、大きな鈴の紐がぶら下がって昼間見ると、その鈴の傍に八幡宮と云う額が懸っている。八の字が、鳩が二羽向いあったような書体にできているのが面白い。そのほかにもいろいろの額がある。たいていは家中のものの射抜いた金的を・・・ 夏目漱石 「夢十夜」
・・・源家八幡太郎の子孫に武人の夥しきも、能力遺伝の実証として見るべし。また、武家の子を商人の家に貰うて養えば、おのずから町人根性となり、商家の子を文人の家に養えば、おのずから文に志す。幼少の時より手につけたる者なれば、血統に非ざるも自然に養父母・・・ 福沢諭吉 「徳育如何」
・・・その庭の白く乾いた道の上こそ、草履の端から立つ埃がむっとしておれ、たった一歩、例えばまあ三月堂から男山八幡へ行く道、三笠山へ出る道を右にそれて草原に出て見る、そこで人影はもう余程疎らだ。もう一寸、麗らかな太陽の下で情感ある蔭を重ねている矮樹・・・ 宮本百合子 「宝に食われる」
・・・ そこから又八幡神社を抜けて行くと、古い建物のあと――東塔といって昔七重の高塔で頗る壮麗なものであったという、その塔の跡のあたり芝原になっています。そして其処にはパチコが一面に咲いていました。香りこそないが、鈴のような恰好の白い花で、如・・・ 宮本百合子 「「奈良」に遊びて」
・・・そこに、根津が遊郭であった時代に、八幡楼の隠居のいる小さい寮があった。後にそれを買い潰して、崖の下に長い柱を立てて、私の家と軒が相対するような二階家の広いのを建てたものがある。眺望の好かった私の家は、その二階家が出来たために、陰気な住いにな・・・ 森鴎外 「二人の友」
出典:青空文庫