・・・こう云う幸福な周囲を見れば、どんなに気味の悪い幻も、――いや、しかし怪しい何物かは、眩しい電燈の光にも恐れず、寸刻もたゆまない凝視の眼を房子の顔に注いでいる。彼女は両手に顔を隠すが早いか、無我夢中に叫ぼうとした。が、なぜか声が立たない。その・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・私は悚然として再びこの沼地の画を凝視した。そうして再びこの小さなカンヴァスの中に、恐しい焦躁と不安とに虐まれている傷しい芸術家の姿を見出した。「もっとも画が思うように描けないと云うので、気が違ったらしいですがね。その点だけはまあ買えば買・・・ 芥川竜之介 「沼地」
・・・といいかけて、品のある涼しい目をまた凝視め、「これさ、もう夜があけたから夢ではない。」 十一 しばらくして菊枝が細い声、「もし」「や、産声を挙げたわ、さあ、安産、安産。」と嬉しそうに乗出して膝を叩く。・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・巻莨に点じて三分の一を吸うと、半三分の一を瞑目して黙想して過して、はっと心着いたように、火先を斜に目の前へ、ト翳しながら、熟と灰になるまで凝視めて、慌てて、ふッふッと吹落して、後を詰らなそうにポタリと棄てる……すぐその額を敲く。続いて頸窪を・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・ 一言いったきり、一樹が熟と凝視めて、見る見る顔の色がかわるとともに、二度ばかり続け様に、胸を撫でて目をおさえた。 先を急ぐ。……狂言はただあら筋を言おう。舞台には茸の数が十三出る。が、実はこの怪異を祈伏せようと、三山の法力を用い、・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・本当の愛があれば、その場合それを凝視すべきである。真の傍観者に愛がないということは云えない。一つの事実をじっと凝視するという事は、即ち凝視そのものが私はある意味で愛そのものだと云い得ると思う。この意味から自分の敵に対しても凝視を怠ってはなら・・・ 小川未明 「愛に就ての問題」
・・・ 芸術は、現実の凝視から産れる。現実を忘れて、そこに、吾人に価値ある芸術は存在しない。 私達は、この現実に於て、暴力が憚からずに行われていることを知っている。強者は、徒らに弱者を虐げている事実を見あきる程見ている。人間が、人間を奴隷・・・ 小川未明 「人間否定か社会肯定か」
・・・そして、人間生活を現実的に、実際的に凝視せしむるに至った。 幻滅の悲哀は、人間生活の何の部面にも見出された事実ではあったが、殊に、各自の家庭に、最も、そのことを見出した。恋愛至上主義によって、結婚した男女は、いまや、幻滅の悲哀を感じて、・・・ 小川未明 「婦人の過去と将来の予期」
・・・だから、じっとこちらを見ているようで、ふとあらぬ方向を凝視している感じであった。こんな眼が現実の底の底まで見透す眼であろうと、私は思った。作家の眼を感じたのだ。 ちょっと受ける感じは、野放図で、ぐうたらみたいだが、繊細な神経が隅々まで行・・・ 織田作之助 「四月馬鹿」
一 喬は彼の部屋の窓から寝静まった通りに凝視っていた。起きている窓はなく、深夜の静けさは暈となって街燈のぐるりに集まっていた。固い音が時どきするのは突き当っていく黄金虫の音でもあるらしかった。 そこは入・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
出典:青空文庫