・・・ 上さんはお茶を汲んで出しながら、話の多い爺さんから、何か引出そうとするらしかった。子供はもう皆な奥で寝てしまって、二つになる末の子だけが、母親の乳房に吸いついた。勤め人の主は、晩酌の酔がまださめず、火鉢の側に胡座をかいて、にやにやして・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・あたかも明治の初年日本の人々が皆感激の高調に上って、解脱又解脱、狂気のごとく自己を擲ったごとく、我々の世界もいつか王者その冠を投出し、富豪その金庫を投出し、戦士その剣を投出し、智愚強弱一切の差別を忘れて、青天白日の下に抱擁握手抃舞する刹那は・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・善ニョムさんは、まったく狂人のように怒り出して、畑の隅へ駈けて行くと天秤棒をとりあげて犬の方へ駈けていった「ち、ちきしょうめ!」 しかし、犬は素早く畑を飛び出すと、畑のくろをめぐって、下の畑へ飛び下りた。そしてこれも顔を赤くホテらし・・・ 徳永直 「麦の芽」
・・・蟻、やすで、むかで、げじげじ、みみず、小蛇、地蟲、はさみ蟲、冬の住家に眠って居たさまざまな蟲けらは、朽ちた井戸側の間から、ぞろぞろ、ぬるぬる、うごめき出し、木枯の寒い風にのたうち廻って、その場に生白い腹を見せながら斃死ってしまうのも多かった・・・ 永井荷風 「狐」
・・・身体一杯の疱瘡が吹き出した時其鼻孔まで塞ってしまった。呼吸が逼迫して苦んだ。彼の母はそれを見兼ねて枳の実を拾って来て其塞った鼻の孔へ押し込んでは僅かに呼吸の途をつけてやった。それは霜が木の葉を蹴落す冬のことであった。枳の木は竹藪の中に在った・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・しまいには遠き未来の世を眼前に引き出したるように窈然たる空の中にとりとめのつかぬ鳶色の影が残る。その時この鳶色の奥にぽたりぽたりと鈍き光りが滴るように見え初める。三層四層五層共に瓦斯を点じたのである。余は桜の杖をついて下宿の方へ帰る。帰る時・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・私は急に不安になり、道を探そうとしてあわて出した。私は後へ引返して、逆に最初の道へ戻ろうとした。そして一層地理を失い、多岐に別れた迷路の中へ、ぬきさしならず入ってしまった。山は次第に深くなり、小径は荊棘の中に消えてしまった。空しい時間が経過・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・と云う私の観念を打ち破って、私を出し抜けに相手にする奴があった。「オイ、若けえの」と、一人の男が一体どこから飛び出したのか、危く打つかりそうになるほどの近くに突っ立って、押し殺すような小さな声で呻くように云った。「ピー、カンカンか」・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・ 廊下には上草履の音がさびれ、台の物の遺骸を今室の外へ出しているところもある。はるかの三階からは甲走ッた声で、喜助どん喜助どんと床番を呼んでいる。「うるさいよ。あんまりしつこいじゃアないか。くさくさしッちまうよ」と、じれッたそうに廊・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・そして隠しからパンを一切と、腸詰を一塊と、古い薬瓶に入れた葡萄酒とを取出して、晩食をしはじめた。 この時自分のいる所から余り遠くない所に、鈍い、鼾のような声がし出したので、一本腕は頭をその方角に振り向けた。「おや。なんだ。爺いさん。・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
出典:青空文庫