・・・道は遠し懐中には一文も無し、足は斯の通り脚気で腫れて歩行も自由には出来かねる。情があらば助力して呉れ。頼む。斯う真実を顔にあらわして嘆願するのであった。「実は――まだ朝飯も食べませんような次第で。」 と、その男は附加して言った。・・・ 島崎藤村 「朝飯」
・・・自分の作った人生観さえ自分で信ずることの出来ない私であるから、まして他人の立てた人生観など、そのまま受け入れることの出来るものは一つもない。何ものをも批評するのが先になって、信ずることが出来ない、讃仰することが出来ない。信じ得る人の心は平和・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・河に沿うて、河から段々陸に打ち上げられた土沙で出来ている平地の方へ、家の簇がっている斜面地まで付いている、黄いろい泥の道がある。車の轍で平らされているこの道を、いつも二輪の荷車を曳いて、面白げに走る馬もどこにも見えない。 河に沿うて付い・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・お百姓の夫婦は、いい名前をつけてもらったと言ってよろこんで、じいさんを家へつれて帰って、出来るだけの御ちそうをこしらえて、名づけのお祝いをしました。 じいさんは別れるときに、ポケットから小さな、さびた鍵を一つ取り出して、「これをウイ・・・ 鈴木三重吉 「黄金鳥」
・・・そして子供でも出来ようもんなら、それは好くってよ。そんなことはお前さんには分からないわね。御覧よ。内のちび達にこれを遣るのだわ。これがリイザアのよ。好い人形でしょう。目をくるくる廻して、首がどっちへでも向くの・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:森鴎外 「一人舞台」
・・・ 女の子が、スバシニと云う名を与えられた時、誰が、彼女の唖なことを思い当ることが出来ましょう。彼女の二人の姉は、スケシニスハスニと云う名でした。お揃にする為、父親は一番末の娘にも、スバシニと云う名をつけたのでした。彼女は、其をち・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・ 夏の中に、秋がこっそり隠れて、もはや来ているのであるが、人は、炎熱にだまされて、それを見破ることが出来ぬ。耳を澄まして注意をしていると、夏になると同時に、虫が鳴いているのだし、庭に気をくばって見ていると、桔梗の花も、夏になるとすぐ咲い・・・ 太宰治 「ア、秋」
・・・そこには最新の出来事を知っていて、それを伝播させる新聞記者が大勢来るから、噂評判の源にいるようなものである。その噂評判を知ることも、先ず益があって損のない事である。 この店に這入って据わると、誰でも自分の前に、新聞を山のように積み上げら・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・何うかしてその嫌疑を解いて貰わなければ、本当に何にも出来やしないよ。困ったことになっているんだねえ。」こう博士は言って、矢張勇吉の体中をさがすように見た。俄かに博士の態度が変って行ったように――そういう嫌疑を持っている人間に邸に出入されては・・・ 田山花袋 「トコヨゴヨミ」
・・・ レニンの仕事は科学でないだけに、その人のその仕事の遂行者としてのえらさは必ずしも目前の成果のみで計量する事が出来ない。それにもかかわらずレニンのえらさは一般の世人に分りやすい種類のものである。取扱っているものが人間の社会で、使っている・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
出典:青空文庫