天王寺の別当、道命阿闍梨は、ひとりそっと床をぬけ出すと、経机の前へにじりよって、その上に乗っている法華経八の巻を灯の下に繰りひろげた。 切り燈台の火は、花のような丁字をむすびながら、明く螺鈿の経机を照らしている。耳には・・・ 芥川竜之介 「道祖問答」
・・・ここの別当橋立寺と予て聞けるはこれにやと思いつつ音ない驚かせば、三十路あまりの女の髪は銀杏返しというに結び、指には洋銀の戒指して、手頸には風邪ひかぬ厭勝というなる黒き草綿糸の環かけたるが立出でたり。さすがに打収めたるところありて全くのただ人・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・これが飯綱の法のはじまりで、それからその子盛縄も同じく法を得て奇験を現わし、飯綱の千日家というものは、この父子より成立ち、飯綱権現の別当ともいうべきものになったのであり、徳川初期には百石の御朱印を受けていたものである。 今は飯綱神社で、・・・ 幸田露伴 「魔法修行者」
・・・そうして、この建暦元年には、ようやく十二歳になられ、その時の別当定暁僧都さまの御室に於いて落飾なされて、その法名を公暁と定められたのでございます。それは九月の十五日の事でございましたが御落飾がおすみになってから、尼御台さまに連れられて将・・・ 太宰治 「鉄面皮」
・・・とたずねますと、男は急にまじめになって、「わしは山ねこさまの馬車別当だよ。」と言いました。 そのとき、風がどうと吹いてきて、草はいちめん波だち、別当は、急にていねいなおじぎをしました。 一郎はおかしいとおもって、ふりかえって見ま・・・ 宮沢賢治 「どんぐりと山猫」
・・・「何だい、山猫の馬車別当め。」ミーロが云いました。「三人で這いまわって、あかりの数を数えてるんだな。ハッハッハ。」足のまがった片眼のその爺さんは上着のポケットに手を入れたまま、また高くわらいました。「数えてるさ、そんなら、じいさ・・・ 宮沢賢治 「ポラーノの広場」
・・・花壇の向うは畠になっていて、その西の隅に別当部屋の附いた厩がある。花壇の上にも、畠の上にも、蜜柑の木の周囲にも、蜜蜂が沢山飛んでいるので、石田は大そう蜜蜂の多い処だと思って爺さんに問うて見た。これは爺さんが飼っているので、巣は東側の外壁に弔・・・ 森鴎外 「鶏」
出典:青空文庫