・・・と同時に神山は、派手なセルの前掛けに毛糸屑をくっつけたまま、早速帳場机から飛び出して来た。「看護婦会は何番でしたかな?」「僕は君が知っていると思った。」 梯子の下に立った洋一は、神山と一しょに電話帳を見ながら、彼や叔母とは没交渉・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・ と紺の鯉口に、おなじ幅広の前掛けした、痩せた、色のやや青黒い、陰気だが律儀らしい、まだ三十六七ぐらいな、五分刈りの男が丁寧に襖際に畏まった。「どういたして、……まことに御馳走様。……番頭さんですか。」「いえ、当家の料理人にござ・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・絣の単物に、メリンスの赤縞の西洋前掛けである。自分はこれを見て、また強く亡き人の俤を思い出さずにいられなかった。 くりくりとしたつむり、赤い縞の西洋前掛けを掛け、仰向いて池に浮いていたか。それを見つけた彼の母の、その驚き、そのうろたえ、・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
・・・驚いて拾い上げたが、もう縄に掛らなかったので、前掛けに包んで帰ろうとすると、石段につまずいて倒れた。手と膝頭を擦り剥いただけでしたが、私は手ぶらで帰っても浜子に折檻されない口実ができたと思ったのでしょう、通りかかった人が抱き起しても、死んだ・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・ 調理台で、牛蒡を切っていた吉永が、南京袋の前掛けをかけたまま入口へやって来た。 武石は、ぺーチカに白樺の薪を放りこんでいた。ぺーチカの中で、白樺の皮が、火にパチパチはぜった。彼も入口へやって来た。「コーリヤ。」 松木が云っ・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・ と、私はまた小さな娘にでも注意するように末子に言って、白の前掛けをかけさせ、その日の台所を手伝わせることも忘れなかった。「ほんとに、太郎さんのようなおとなしい人のおよめさんになるものは仕合わせだ。わたしもこれでもっと年でも取ってる・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・奥さんは聖ヨハネの祭日にむすめに着せようとして、美しい前掛けを縫っていました。むすめはお母さんの足もとの床の上にすわって、布切れの端を切りこまざいて遊んでいました。「なぜパパは帰っていらっしゃらないの」 とその小さい子がたずねます。・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・白い前掛けですっかりからだを包んで首だけ出したのをひざの上にのせて顎の下をかいてやったりしていた。猫はあきらめてあまりもがきもしなかったが、前足だけ出してやると、もう逃げよう逃げようとして首をねじ向けるのであった。小さな子供らはこの子猫を飼・・・ 寺田寅彦 「ねずみと猫」
・・・或る子は前掛けの衣嚢から干した無花果を出して遣ろうといたしました。 童子は初めからお了いまでにこにこ笑っておられました。須利耶さまもお笑いになりみんなを赦して童子を連れて其処をはなれなさいました。 そして浅黄の瑪瑙の、しずかな夕もや・・・ 宮沢賢治 「雁の童子」
・・・協力はいつでも前掛けをかけているとはきまっていない。協力は時に全く前掛けのあることと、竈のあることと、借金のあることを忘れることにあらわれる。そうかと思えば、猛烈にその借金を返すことに努力し、自分たちの生活破壊から自分たちをまもるために協力・・・ 宮本百合子 「明日をつくる力」
出典:青空文庫