・・・ ぐずぐずして居ると突飛ばされる、早い足なみの人波に押されて広場へ出ると、首をひょいとかたむけて、栄蔵の顔をのぞき込みながら、揉手をして勧める車夫の車に一銭も値切らずに乗った。 法外な値だとは知りながら、すっかり勝手の違った東京の中・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・けれども、若し男性が、その時一時の気の毒さや興奮から、それを肯って、却って後に不幸を招くようなことをするよりは、静に考え、寧ろ結婚するよりは、友達として平和な交際を続けることを勧めるほかないことさえあります。 斯様に、全く自己の選択と意・・・ 宮本百合子 「男女交際より家庭生活へ」
・・・ 竹が台所から出て来て、饂飩の代りを勧めると、富田が手を揮って云った。「もういけない。饂飩はもう御免だ。この家にも奥さんがいれば、僕は黙って饂飩で酒なんぞは飲まないのだが。」 これが口火になって、有妻無妻という議論が燃え上がった・・・ 森鴎外 「独身」
・・・同じ長屋に住むものが、あれでは体が続くまいと気づかって、酒を飲むことを勧めると、仲平は素直に聴き納れて、毎日一合ずつ酒を買った。そして晩になると、その一合入りの徳利を紙撚で縛って、行燈の火の上に吊るしておく。そして燈火に向って、篠崎の塾から・・・ 森鴎外 「安井夫人」
出典:青空文庫