・・・と新聞はあとで書きましたが、十分過ぎでした。立ち話もそんな場所ではできず、前から部屋を頼んでおいた近くの逢坂町にある春風荘という精神道場へ行こうとすると、新聞の写真班が写真を撮るからちょっと待ってくれと言いました。それで、私たちは、秋山さん・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・ 兎に角水は十分に飲むべし。一日に三度飲もう、朝と昼と晩とにな。 日の出だ! 大きく盆のようなのが、黒々と見ゆる山査子の枝に縦横に断截られて血潮のように紅に、今日も大方熱い事であろう。それにつけても、隣の――貴様はまア何となる事・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・しかしそれもたんに健康なんかの問題でなくて、別なところ来てるのかもしれないが、しかしとにかく健康もよくないらしいから、できるだけ永くいて、十分静養してくる方がいいだろう。もっともそうした君を、田舎でも長く置いてくれるかどうかは、疑問だがね…・・・ 葛西善蔵 「遁走」
・・・眼が充分明けません。一寸鏡を貸して下さい」と言います。その時私は、鏡を見せるのはあまりに不愍と思いましたので、鏡は見ぬ方がよかろうと言いますと、平常ならば「左様ですか」と引っ込んで居る人ではなかったのですが、この時は妙に温しく「止しときまし・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・単なる言葉だけでも充分自分は参っているところであった。友人の再現して見せたその調子は自分を泣かすだけの力を持っていた。 模倣というものはおかしいものである。友人の模倣を今度は自分が模倣した。自分に最も近い人の口調はかえって他所から教えら・・・ 梶井基次郎 「泥濘」
・・・ようやく無事に苦しみかけたところへ、いい慰みが沸いて来た。充分うまくやって見ようぞ。ここがおれの技倆だ。はて事が面白くなって来たな。 光代は高がひいひいたもれ。ただ一撃ちに羽翼締めだ。否も応も言わせるものか。しかし彼の容色はほかに得られ・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・秋の初めで、空気は十分に澄んでいる、日の光は十分に鮮やかである。画だ! 意味の深い画である。 豊吉の目は涙にあふれて来た。瞬きをしてのみ込んだ時、かれは思わはずその涙をはふり落とした。そして何ともいえない懐しさを感じて、『ここだ、おれの・・・ 国木田独歩 「河霧」
・・・ 人間が、文化と、精神と霊とを持っているのでなかったら夫婦道というものは初めから無理で意味をなさないのだから、夫婦になる以上は性に関する、文化的、精神的、霊的要求を充分に夫婦道に盛るべきだ。そういう愛を互いに期待すべきだ。だからこのごろ・・・ 倉田百三 「愛の問題(夫婦愛)」
・・・ 三十分ほどたつと、彼は手ぶらで、悄然と反対の方から丘を登り、それから、兵営へ丘を下って帰って来た。ほかの者たちは、まだ、ぺーチカを焚いている暖かい部屋で、胸をときめかしている時分だった。「ああ、もうこれでやめよう!」彼は、ぐったり・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・ そういう訳で銘々勝手な本を読みますから、先生は随分うるさいのですが、其の代り銘々が自家でもって十分苦しんで読んで、字が分らなければ字引を引き、意味が取れなければ再思三考するというように勉強した揚句に、いよいよ分らないというところだけを・・・ 幸田露伴 「学生時代」
出典:青空文庫