・・・その中でもこの地方のやや高山がかった植物界は、南国の海べに近く生い立った自分にはみんな目新しいもののように思われるのであった。子供の時分に少しばかり植物の採集のまね事をして、さくようのようなものを数十葉こしらえてみたりしたことはあったが、そ・・・ 寺田寅彦 「沓掛より」
・・・同級のI君が脚気で亡くなったので、われわれ数人の親しかった連中でその葬式に行った。南国の真夏の暑い盛りであった。町から東のO村まで二里ばかりの、樹蔭一つない稲田の中の田圃道を歩いて行った。向うへ着いたときに一同はコップに入れた黄色い飲料を振・・・ 寺田寅彦 「さまよえるユダヤ人の手記より」
・・・ なんでも南国の夏の暑いある日の小学校の教場で「進級試験」が行なわれていた。おおぜいの生徒の中に交じって自分も一生懸命に答案をかいていた。ところが、どうしたわけか、その教場の中に例のいやなゴムの葉の強烈なにおいがいっぱいにみなぎっていて・・・ 寺田寅彦 「試験管」
・・・ 南国の真夏の暑い真盛りに庭に面した風通しのいい座敷で背中の風をよけて母にすえてもらった日の記憶がある。庭では一面に蝉が鳴き立てている。その蝉の声と背中の熱い痛さとが何かしら相関関係のある現象であったかのような幻覚が残っている。同時にま・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・ルビーやエメラルドのような一つ一つの灯は濃密な南国の夜の空気の奥にいきいきとしてまたたいている。こんな景色は生まれて始めて見るような気がする。……シナ人が籐寝台を売りに来たのを買って涼みながらT氏と話していると、浴室ボーイが船から出かけるの・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・夏休みは標本採集の書きいれ時なので、毎日捕虫網を肩にして旧城跡の公園に出かけたものである。南国の炎天に蒸された樹林は「小さなうごめく生命」の無尽蔵であった。人のはいらないような茂みの中には美しいフェアリーや滑稽なゴブリンの一大王国があったの・・・ 寺田寅彦 「夏」
・・・たとえば信州へんでもある東西に走る渓流の南岸の斜面には北海道へんで見られるような闊葉樹林がこんもり茂っているのに、対岸の日表の斜面には南国らしい針葉樹交じりの粗林が見られることもある。 単に微気候学的差別のみならず、また地質の多様な変化・・・ 寺田寅彦 「日本人の自然観」
・・・土蔵の横にある大きな柿の木の大枝小枝がまっさおな南国の空いっぱいに広がっている。すぐ裏の冬田一面には黄金色の日光がみなぎりわたっている。そうかと思うと、村はずれのうすら寒い竹やぶの曲がり角を鳥刺し竿をもった子供が二三人そろそろ歩いて行く。こ・・・ 寺田寅彦 「病院の夜明けの物音」
・・・それでもこの寒く冷たい寝床の上で、強烈な日光と生命のみなぎった南国の天地を思うのはこの上もない慰藉であった。 サイクラメンのほうは少し生育が充分でなかった。花にもなんだか生気が少なく、葉も少し縮れ上がって、端のほうはもう鳶色に朽ちかかっ・・・ 寺田寅彦 「病室の花」
・・・しかし裾野の所々に熟したオレンジの畑は美しく、また日本の南国に育った自分にはなつかしかった。フニクラレの客車で日本人らしい人に出会って名乗り合ったら、それは地質学者のK氏であった。このケーブル線路の上の方の部分は近頃の噴火に破壊されていたの・・・ 寺田寅彦 「二つの正月」
出典:青空文庫