・・・ と、松本は笑って、かたわらの女の肩を敲きながら、あの男のやりそうなこっちゃと、顔じゅう皺だらけだったが、眼だけ笑えなかった。チップを置いて、威張って出て行ったわけでもあるまい。壜を集めに来るからには、いわば坂田にとってそこは得意先なの・・・ 織田作之助 「雪の夜」
・・・近所に氷がありませいでなあ、夜中の二時頃、四里ほどの道を自転車で走って、叩き起こして買うたのはまあよかったやさ。風呂敷へ包んでサドルの後ろへ結えつけて戻って来たら、擦れとりましてな、これだけほどになっとった」 兄はその手つきをして見せた・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・「即ち僕の願はどうにかしてこの霜を叩き落さんことであります。どうにかしてこの古び果てた習慣の圧力から脱がれて、驚異の念を以てこの宇宙に俯仰介立したいのです。その結果がビフテキ主義となろうが、馬鈴薯主義となろうが、将た厭世の徒となってこの・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・ 今は小説を書くために、小説を書いている人間はいくらでもいるが、本当に、ペンをとってブルジョアを叩きつぶす意気を持ってかゝっている者は、五指を屈するにも足りない。僕は、トルストイや、ゴーゴリや、モリエールをよんで常に感じるのは、彼等は小・・・ 黒島伝治 「愛読した本と作家から」
・・・「ところが御前で敲き毀すようなものを作ってはなりませぬ、是非とも気の済むようなものを作ってご覧をいただかねばなりませぬ。それが果して成るか成らぬか。そこに脊骨が絞られるような悩みが……」「ト云うと天覧を仰ぐということが無理なことにな・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・りけりの寝乱れ髪を口さがないが習いの土地なれば小春はお染の母を学んで風呂のあがり場から早くも聞き伝えた緊急動議あなたはやと千古不変万世不朽の胸づくし鐘にござる数々の怨みを特に前髪に命じて俊雄の両の膝へ敲きつけお前は野々宮のと勝手馴れぬ俊雄の・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・ 自分は立膝をして、物尺を持って針山の針をこつこつ叩いて、順々に少しずつ引っこませていたが、ふと叩きすぎて、一本の針を頭も見えないようにしてしまう。幸にそれにはちょっとした糸がついていたので、ぐいとその糸を引くと、針はすらりと抜ける。・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・ 佐吉さんは何も言わず、私の背中をどんと叩きました。そのまま一夏を、私は三島の佐吉さんの家で暮しました。三島は取残された、美しい町であります。町中を水量たっぷりの澄んだ小川が、それこそ蜘蛛の巣のように縦横無尽に残る隈なく駈けめぐり、清冽・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・東京から遥々見送って来た安兵衛という男が、宿屋で毎日朝から酒ばかり飲んでいて、酔って来ると箸で皿を叩きながら「ノムダイシ、一升五合」(南無大師遍照金剛というのを繰返し繰返し唱えたことも想い出す。考えてみるとそれはもう五十年の昔である。 ・・・ 寺田寅彦 「箱根熱海バス紀行」
・・・先方の口から言出させて、大概の見当をつけ、百円と出れば五拾円と叩き伏せてから、先方の様子を見計らって、五円十円と少しずつせり上げ、結局七八拾円のところで折合うのが、まずむかしから世間一般に襲用された手段である。僕もこのつもりで金高を質問した・・・ 永井荷風 「申訳」
出典:青空文庫