・・・ 可哀想に此女は不幸の重荷でへしつぶされてしまったんだ。もう希望を持つことさえも怖しくなったんだろう。と私は思った。 世の中の総てを呪ってるんだ。皆で寄ってたかって彼女を今日の深淵に追い込んでしまったんだ。だから僕にも信頼しないんだ・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・ あなたは労働者ですか、あなたが労働者だったら、私を可哀相だと思って、お返事下さい。 此樽の中のセメントは何に使われましたでしょうか、私はそれが知りとう御座います。 私の恋人は幾樽のセメントになったでしょうか、そしてどんなに方々・・・ 葉山嘉樹 「セメント樽の中の手紙」
・・・唯一目見たばかりですが、何だか可哀相で可哀相でならない気が為たのでした。 そうねえ、年は、二十二三でもありましょうか。そぼうな扮装の、髪はぼうぼうと脂気の無い、その癖、眉の美しい、悧発そうな眼付の、何処にも憎い処の無い人でした。それに生・・・ 広津柳浪 「昇降場」
・・・妻子珍宝及王位、臨命終時不随者というので御釈迦様はすました者だけれど、なかなかそうは覚悟しても居ないから凡夫の御台様や御姫様はさぞ泣きどおしで居られるであろう。可哀想に、華族様だけは長いきさせてあげても善いのだが、死に神は賄賂も何も取らない・・・ 正岡子規 「墓」
・・・ 正月になって幾日かして、近ごろ私が可哀想に思ってみたその写真がとられ、インタービューがされたのであった。 さらにそれから幾日か経て、中野重治と私とは、内務省の係りの役人のところへ、事情をききに出かけた。外から入ると、トンネルのよう・・・ 宮本百合子 「ある回想から」
・・・いくら可哀想と思い血の涙をこぼしても、金を出さなければ医者のよべないブルジョア社会で、一文なしならどうしましょう。医者にかけられずに子を死なせた親を情なしと云ったら口はさけます。 ブルジョア社会では、親が金の余裕をもってその子が幸福にな・・・ 宮本百合子 「従妹への手紙」
・・・「スチルネルは哲学史上に大影響を与えている人で、無政府主義者と云われている人達と一しょにせられては可哀相だ。あれは本名を Johann Kaspar Schmidt と云って、伯林で高等学校の教師をしていた。有名な、唯一者とその所有を出・・・ 森鴎外 「食堂」
・・・あんな死にかけてる者、何処へ行くところがあるぞ、可哀想に。」「あんな腐った鰯みたいな奴と一緒にいたら、虫が湧くわ。」「そんな無茶苦茶云うてんと。」「あかんったらあかん。南のが引き取りゃそれでええんじゃ。」「お前とこ虫が湧きゃ・・・ 横光利一 「南北」
・・・「あたしより、あなたの方が、可哀想だわ。」「そりゃ、定まってる。俺の方が馬鹿を見たさ。だいたい、人間が生きているなんていうことからして、下らないよ。こんなにぶらぶらして、生きていたって、始まらないじゃないか。お前も、もう死ぬがいい、・・・ 横光利一 「花園の思想」
・・・そのくせ弟の身の上は、心から可哀相でならない。しかしまたしては、「やっぱりそうなった方が、あいつのためには為合せかも知れない、どうせ病身なのだから」と思っては自分で自分を宥めて見るのである。そのうち寐入ってしまった。 ヴェロナ・ヴェッキ・・・ 著:リルケライネル・マリア 訳:森鴎外 「白」
出典:青空文庫