・・・潮遠く引きさりしあとに残るは朽ちたる板、縁欠けたる椀、竹の片、木の片、柄の折れし柄杓などのいろいろ、皆な一昨日の夜の荒の名残なるべし。童らはいちいちこれらを拾いあつめぬ。集めてこれを水ぎわを去るほどよき処、乾ける砂を撰びて積みたり。つみし物・・・ 国木田独歩 「たき火」
・・・さらにその特点をいえば、大都会の生活の名残と田舎の生活の余波とがここで落ちあって、緩やかにうずを巻いているようにも思われる。 見たまえ、そこに片眼の犬が蹲っている。この犬の名の通っているかぎりがすなわちこの町外れの領分である。 見た・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・吉永が、温かい茶をのみながら、リーザと名残を惜んでいるかも知れない。やせぎすな、小柄なリーザに、イイシまで一緒に行くことをすすめているだろう。多分、彼も、何かリーザが喜びそうなものを買って持って行っているのに違いない。武石は、小皺のよった、・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・その面上にははや不快の雲は名残無く吹き掃われて、その眼は晴やかに澄んで見えた。この僅少の間に主人はその心の傾きを一転したと見えた。「ハハハハ、云うてしまおう、云うてしまおう。一人で物をおもう事はないのだ、話して笑ってしまえばそれで済むの・・・ 幸田露伴 「太郎坊」
・・・ 七日、朝いと夙く起き出でて、自ら戸を繰り外の方を見るに、天いと美わしく横雲のたなびける間に、なお昨夜の名残の電光す。涼しき中にこそと、朝餉済ますやがて立出ず。路は荒川に沿えど磧までは、あるは二、三町、あるいは四、五町を隔てたれば水の面・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・ 東京まで出て行って見ると、震災の名残はまだ芝の公園あたりにも深かった。そこここの樹蔭には、不幸な避難者の仮小屋も取払われずにある。公園の蓮池を前に、桜やアカシヤが影を落している静かな一隅が、お三輪の目ざして行ったところだ。葦簾で囲った・・・ 島崎藤村 「食堂」
・・・時に依って万歳の叫喚で送られたり、手巾で名残を惜まれたり、または嗚咽でもって不吉な餞を受けるのである。列車番号は一〇三。 番号からして気持が悪い。一九二五年からいままで、八年も経っているが、その間にこの列車は幾万人の愛情を引き裂いたこと・・・ 太宰治 「列車」
・・・私は、ただ一人淋しく、森のはずれの切株に腰をかけて、かすかな空の微光の中に消えて行く絃の音の名残を追うている。 気がつくと、曲は終っている。そして、膝にのせた手のさきから、燃え尽した巻煙草の灰がほとりと落ちて、緑のカーペットに砕ける。・・・ 寺田寅彦 「秋の歌」
・・・測られぬ風の力で底無き大洋をあおって地軸と戦う浜の嵐には、人間の弱い事、小さな事が名残もなく露われて、人の心は幽冥の境へ引寄せられ、こんな物も見るのだろうと思うた。 嵐は雨を添えて刻一刻につのる。波音は次第に近くなる。 室へ帰る時、・・・ 寺田寅彦 「嵐」
・・・ 石を囲した一坪ほどの水溜りは碑文に言う醴泉の湧き出た井の名残であろう。しかし今見れば散りつもる落葉の朽ち腐された汚水の溜りに過ぎない。 碑の立てられた文化九年には南畝は既に六十四歳になっていた。江戸から遠くここに来って親しく井の水・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
出典:青空文庫