・・・ 南無三宝と呆気に取られて、目をみはった鼻っ先を、件の蝙蝠は横撫に一つ、ばさりと当てて向へ飛んだ。 何様猫が冷たい処をこすられた時は、小宮山がその時の心持でありましょう。 嚔もならず、苦り切って衝立っておりますると、蝙蝠は翼を返・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・ 時にそよがした扇子を留めて、池を背後に肱掛窓に、疲れたように腰を懸ける、と同じ処に、肱をついて、呆気に取られた一帆と、フト顔を合せて、恥じたる色して、扇子をそのまま、横に背いて、胸越しに半面を蔽うて差俯向く時、すらりと投げた裳を引いて・・・ 泉鏡花 「妖術」
・・・余りに無遠慮な予の詞に、岡村は呆気にとられたらしい。黙って予の顔を見て居る。予も聊かきまりが悪くなったから、御馳走して貰って悪口いうちゃ済まんなあ。失敬々々。こう云ってお茶を濁す。穏かな岡村も顔に冷かな苦笑を湛えて、相変らず元気で結構さ。僕・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・と挨拶された時は読売記者は呆気に取られて、暫らくは開いた口が塞がらなかったという逸事がある。 鴎外は幼時神童といわれたそうだ。虚実は知らぬが、「十ウで神童、ハタチで才子、二十以上はタダの人というお約束通り、森の子も行末はタダの人サ、」と・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・自分ばかりが呆気に取られるだけなら我慢もなるが、社外の人に手数を掛けたり多少の骨折をさせたりした事をお関いなしに破毀されてしまっては、中間に立つ社員は板挟みになって窮してしまう。あるいはまた、同じ仕事を甲にも乙にも丙にも一人々々に「君が適任・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・が洋服を着たような満面苦渋の長谷川辰之助先生がこういう意表な隠し芸を持っていようとは学生の誰もが想像しなかったから呆気に取られたのも無理はない。が、「謹厳」のお化のような先生は尾州人という条、江戸の藩邸で江戸の御家人化した父の子と生れた江戸・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・ 某日、軽部の同僚と称して、蒲地某が宗右衛門の友恵堂の最中を手土産に出しぬけに金助を訪れ、呆気にとられている金助を相手によもやまの話を喋り散らして帰って行き、金助にはさっぱり要領の得ぬことだった。ただ、蒲地某の友人の軽部村彦という男が品・・・ 織田作之助 「雨」
・・・Tもさすがに呆気に取られたさまで、ぼんやり見やっていたが、敗けん気を出して浪子夫人のあとから鎖につかまって乗りだしてみたが二足と先きへは進めなかった。たちまち振り飛ばされるのである。が彼は躍起となって、その大きな身体を泳ぐような恰好して、飛・・・ 葛西善蔵 「遊動円木」
・・・ 三吉は呆気にとられて、あいての大きすぎる口もとをみた。「――いつか、新聞に“現代青年の任務”というのをお書きになったんでしょ。妾、とても、感激しましたわ」 東京弁をまじえて、笑いもせずにいっている。そのあいての顔から視線をはず・・・ 徳永直 「白い道」
・・・ゴーシュは呆気にとられました。「君だ、君だ。」ヴァイオリンの一番の人がいきなり顔をあげて云いました。「さあ出て行きたまえ。」楽長が云いました。みんなもセロをむりにゴーシュに持たせて扉をあけるといきなり舞台へゴーシュを押し出してしまい・・・ 宮沢賢治 「セロ弾きのゴーシュ」
出典:青空文庫