・・・ただ、周囲には多くの硝子戸棚が、曇天の冷い光の中に、古色を帯びた銅版画や浮世絵を寂然と懸け並べていた。本多子爵は杖の銀の握りに頤をのせて、しばらくはじっとこの子爵自身の「記憶」のような陳列室を見渡していたが、やがて眼を私の方に転じると、沈ん・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・短い日が存分西に廻って、彼の周囲には、荒くれた北海道の山の中の匂いだけがただよっていた。 監督を先頭に、父から彼、彼から小作人たちが一列になって、鉄道線路を黙りながら歩いてゆくのだったが、横幅のかった丈けの低い父の歩みが存外しっかりして・・・ 有島武郎 「親子」
・・・不断のように、我身の周囲に行われている、忙わしい、騒がしい、一切の生活が分かる。 はてな。人が殺されたという事実がそれだろうか。自分が、このフレンチが、それに立ち会っていたという事実がそれだろうか。死が恐ろしい、言うに言われぬ苦しいもの・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・何とは知らず周囲の草の中で、がさがさ音がして犬の沾れて居る口の端に這い寄るものがある。木の上では睡った鳥の重りで枯枝の落ちる音がする。近い街道では車が軋る。中には重荷を積んだ車のやや劇しい響をさせるのもある。犬の身の辺には新らしいチャンの匂・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・ はじめは押入と、しかしそれにしては居周囲が広く、破れてはいるが、筵か、畳か敷いてもあり、心持四畳半、五畳、六畳ばかりもありそうな。手入をしない囲なぞの荒れたのを、そのまま押入に遣っているのであろう、身を忍ぶのは誂えたようであるが。・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・ ふりかえってみると、いまでた予の宿の周囲がじつにおもしろい。黒石でつつまれた高みの上に、りっぱな赤松が四、五本森をなして、黄葉した櫟がほどよくそれにまじわっている。東側は神社と寺との木立ちにつづいて冬のはじめとはいえ、色づいた木の葉が・・・ 伊藤左千夫 「河口湖」
・・・然し、その笑いが何となく寂しいのは、友人の周囲を僕に思い当らしめた。「久し振りで君が尋ねて来て、今夜はとまって呉れるのやさかい、僕はこないに嬉しいことはない。充分飲んで呉れ給え」と、酌をしてくれた。「僕も随分やってるよ。――それより・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・更にヨリ一層椿岳の個性を発揮したのは、モウ二十年も前に毀たれたが、この室に続く三方壁の明り窓のない部屋であった。周囲を杉の皮で張って泥絵具で枝を描き、畳の隅に三日月形の穴を開け、下から微かに光線を取って昼なお暗き大森林を偲ばしめる趣向で、こ・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・ 二人の交えた会話はこれだけであった。 女学生ははっきりした声で数を読みながら、十二歩歩いた。そして女房のするように、一番はずれの白樺の幹に並んで、相手と向き合って立った。 周囲の草原はひっそりと眠っている。停車場から鐸の音が、・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・みつばちは太陽の上る前から、花の周囲に集まって、羽を鳴らして歌っていました。ほんとうに、のびのびとした、いい日和がつづきましたので、お城の門番は、退屈してしまいました。どこからともなく、柔らかな風が花のいい香りを送ってきますので、それをかい・・・ 小川未明 「お姫さまと乞食の女」
出典:青空文庫