・・・風もなく、日は、山地に照り付けて何処からともなく蝉の声が聞えて来る。夏蜜柑の皮を剥きながら、此の草葺小屋の内を見廻した。年増の女が、たゞ独り、彼方で後向になって針仕事をしていた。そばを食べると昔の歌をうたって聞かせるという話だが、何も歌わな・・・ 小川未明 「舞子より須磨へ」
・・・ 島の人々は、遍路たちに夏蜜柑を籠に入れ道ばたに置き一ツ二銭とか三銭の木札を傍に立てゝ売るのだが、いまは、蜜柑だけがなくなって金が入れられていないことが多い。店さきのラムネの壜がからになって金を払わずに遍路が混雑にまぎれて去ったりする。・・・ 黒島伝治 「海賊と遍路」
・・・ 黄金色の皮に、青味がさして来るまで樹にならしてある夏蜜柑をトシエは親元からちぎって来た。歯が浮いて、酢ッぱい汁が歯髄にしみこむのをものともせずに、幾ツも、幾ツも、彼女はそれをむさぼり食った。蜜柑の皮は窓のさきに放られてうず高くなった。・・・ 黒島伝治 「浮動する地価」
・・・その時子規はどこからか夏蜜柑を買うて来て、これを一つ食えと云って余に渡した。余は夏蜜柑の皮を剥いて、一房ごとに裂いては噛み、裂いては噛んで、あてどもなくさまようていると、いつの間にやら幅一間ぐらいの小路に出た。この小路の左右に並ぶ家には門並・・・ 夏目漱石 「京に着ける夕」
・・・ この色がいいと云って、夏蜜柑などを品評する事もある。けれども、かつて銭を出して水菓子を買った事がない。ただでは無論食わない。色ばかり賞めている。 ある夕方一人の女が、不意に店先に立った。身分のある人と見えて立派な服装をしている。そ・・・ 夏目漱石 「夢十夜」
・・・その内でも酸味の多いものは最も厭きにくくて余計にくうが、これは熱のある故でもあろう。夏蜜柑などはあまり酸味が多いので普通の人は食わぬけれど、熱のある時には非常に旨く感じる。これに反して林檎のような酸味の少い汁の少いものは、始め食う時は非常に・・・ 正岡子規 「くだもの」
・・・あわてて茶の間に出て見たら、きっちり片づいた卓子の上に一つころりとのって居る夏蜜柑に溢れるように澄んだ朝日がさして居た。 Y出かけてから、私は改めて一寝入りした。十時半頃起きた。今月は雨が多く、鬱陶しく壁の湿っぽいような日が続いたが、今・・・ 宮本百合子 「木蔭の椽」
出典:青空文庫