・・・少年が二人乗った。少年が夢中で昨日済んだ学期試験の成績を話し出す。突然けたたましく泣き出す赤児の声に婆芸者の歯を吸う響ももう聞えなくなった。乗客は皆な泣く子の顔を見ている。女房はねんねこ半纏の紐をといて赤児を抱き下し、渋紙のような肌をば平気・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・余は夢中であるく。 坂を下り切ると細い谷道で、その谷道が尽きたと思うあたりからまた向き直って西へ西へと爪上りに新しい谷道がつづく。この辺はいわゆる山の手の赤土で、少しでも雨が降ると下駄の歯を吸い落すほどに濘る。暗さは暗し、靴は踵を深く土・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・ 重吉は夢中で怒鳴った、そして門の閂に双手をかけ、総身の力を入れて引きぬいた。門の扉は左右に開き、喚声をあげて突撃して来る味方の兵士が、そこの隙間から遠く見えた。彼は閂を両手に握って、盲目滅法に振り廻した。そいつが支那人の身体に当り、頭・・・ 萩原朔太郎 「日清戦争異聞(原田重吉の夢)」
・・・「まるで夢中だよ。私の言うことなんざ耳に入らないんだよ。何にも忘れなすッた物はないかしら。そら忘れて行ッたよ。あんなに言うのに紙入れを忘れて行ッたよ。煙草入れもだ。しようがないじゃアないか」 お熊は敷布団の下にあッた紙入れと煙草入れ・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・て妻は何事をも知らず、唯夫より授けられたる金を請取り之を日々の用度に費すのみにして、其金は自家の金か、借用したる金か、借用ならば如何ようにして誰れに借りたるや、返済の法は如何ようにするなど、其辺は一切夢中にして、夫妻同居、家の一半を支配する・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
朝蚊帳の中で目が覚めた。なお半ば夢中であったがおいおいというて人を起した。次の間に寝て居る妹と、座敷に寐て居る虚子とは同時に返事をして起きて来た。虚子は看護のためにゆうべ泊ってくれたのである。雨戸を明ける。蚊帳をはずす。この際余は口の・・・ 正岡子規 「九月十四日の朝」
・・・ にわかにぱっと暗くなり、そこらの苔はぐらぐらゆれ、蟻の歩哨は夢中で頭をかかえました。眼をひらいてまた見ますと、あのまっ白な建物は、柱が折れてすっかり引っくり返っています。 蟻の子供らが両方から帰ってきました。「兵隊さん。かまわ・・・ 宮沢賢治 「ありときのこ」
・・・が、こわいような、自分の身体がどこで止るか、止るまで分らず転がり落ちる夢中な感じは、何と痛快だろう! 転がれ! 転がれ! わがからだ!「さあ、こんどは一列横隊だ。いい? 一、二、三!」 砂を飛ばしてころがるとき、陽子の胸を若々しい歓・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・全く夢中でいたしましたのでございます。わたくしは小さい時に二親が時疫でなくなりまして、弟と二人あとに残りました。初めはちょうど軒下に生まれた犬の子にふびんを掛けるように町内の人たちがお恵みくださいますので、近所じゅうの走り使いなどをいたして・・・ 森鴎外 「高瀬舟」
・・・まだ覚えておいでなさるか知りませんが、いつでしたかあなたが御亭主と一しょに舞踏会に往くとおっしゃった時、わたくしは夢中になっておこったことがありますね。わたくしはあの写真の男に燕尾服がどんなに似合うだろうと想像すると、居ても立っても居られな・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「最終の午後」
出典:青空文庫