・・・上野へ入れば往来の人ようやくしげく、ステッキ引きずる書生の群あれば盛装せる御嬢様坊ちゃん方をはじめ、自転車はしらして得意気なる人、動物園の前に大口あいて立つ田舎漢、乗車をすゝむる人力、イラッシャイを叫ぶ茶店の女など並ぶるは管なり。パノラマ館・・・ 寺田寅彦 「半日ある記」
・・・ 吉里は上の間の小万をじッと見て、やがて室を出て行ッたかと思うと、隣の尾車という花魁の座敷の前で、大きな声で大口を利くのが、いかにも大酔しているらしく聞えた。 その日も暮れて見世を張る時刻になッた。小万はすでに裲襠を着、鏡台へ対って・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・で、其女の大口開いてアハハハハと笑うような態度が、実に不思議な一種の引力を起させる。あながち惚れたという訳でも無い。が、何だか自分に欠乏してる生命の泉というものが、彼女には沸々と湧いてる様な感じがする。そこはまア、自然かも知れんね――日蔭の・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
・・・英文は元来自分には少しおかったるい方だから、余り大口を利く訳には行かぬが、兎に角原詩よりも訳の方が、趣味も詩想もよく分る、原文では十遍読んでも分らぬのが、訳の方では一度で種々の美所が分って来る、しかも其のイムプレッションを考えて見ると、如何・・・ 二葉亭四迷 「余が翻訳の標準」
・・・ 千世子はだまって壁を見ながら、彌左衛門町を歩いて居た時、お酌が大口あいて蜜豆を頬張って居るのを見た時の気持を思い出して居た。 京子はしきりに千世子の古い処々本虫の喰った本を出してはせわしそうにくって居るのを見て、「何にする・・・ 宮本百合子 「千世子(三)」
・・・ どっか恐ろしくのぽーんとした大口を開いた様な音からして、あんまりいい感じは与えない上に、その主があの親父さんだと云うのだから又いい笑種にされてしまった。 一つの電気の下に集まって、毛脛をあぐらかいて、骨ごつな指を、ギゴチなく一イ、・・・ 宮本百合子 「二十三番地」
・・・天気のよい日で、明るい往来に、実に尨大な石の布袋が空虚な大口をあけて立って居る傍から入ると、何処か、屋敷の塀に一方を遮られ、一方には小体な家々の並んだ細道は霜どけで、下駄が埋る有様である。 暫く行くと、古びた木の門が見えた。一方の柱に岡・・・ 宮本百合子 「又、家」
出典:青空文庫