・・・蝶子の唄もこんどばかりは昔の面影を失うた。赤電車での帰り、帯の間に手を差し込んで、思案を重ねた。おきんに借りた百円もそのままだった。 重い足で、梅田新道の柳吉の家を訪れた。養子だけが会うてくれた。たくさんとは言いませんがと畳に頭をすりつ・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・今眼が覚めたかと思うと、また生体を失う。繃帯をしてから傷の痛も止んで、何とも云えぬ愉快に節々も緩むよう。「止まれ、卸せ! 看護手交代! 用意! 担え!」 号令を掛けたのは我衛生隊附のピョートル、イワーヌイチという看護長。頗る背高で、・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・夢多く持て、若き日の感激を失うな。ものごとを物的に考えすぎるな。それは今の諸君の環境でも可能なことであると。私は学生への同情の形で、その平板と無感激とをジャスチファイせんとする多くの学生論、青年論の唯物的傾向を好まぬものだ。夢見ると夢見ぬと・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・仕事を失う心配がない。食うものも着るものも必要なだけ購買組合からあてがわれる。俺らは、ただ金を取るために、危いことだって、気にむかないことだって、何だってやっている。内地でだってそうだ。満州でだってそうだ。ところが、彼れらは、金を取るためで・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・古い澪杙、ボッカ、われ舟、ヒビがらみ、シカケを失うのを覚悟の前にして、大様にそれぞれの趣向で遊びます。いずれにしても大名釣といわれるだけに、ケイズ釣は如何にも贅沢に行われたものです。 ところで釣の味はそれでいいのですが、やはり釣は根が魚・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・学士は身体の置き処も無いほど酔っていたが、でも平素の心を失うまいとする風で、朦朧とした眼をみはって、そこに居る夫婦の顔や、洋燈に映るコップの水などをよく見ようとした。 学士のコップを取ろうとする手は震えた。お島はそれを学士の方へ押しすす・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・あらゆる既存の人生観はわが知識の前にその信仰価を失う。呪うべきはわが知識であるとも思うが、しかたがない。何らかの威力が迫って来て、私のこの知識を征服してくれたら、私は始めて信じ得るの幸福に入るであろう。 されば現下の私は一定の人生観論を・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・ 何もない。失うべき、何もない。まことの出発は、ここから? 笑い。これは、つよい。文化の果の、花火である。理智も、思索も、数学も、一切の教養の極致は、所詮、抱腹絶倒の大笑いに終る、としたなら、ああ、教養は、――なんて、やっ・・・ 太宰治 「思案の敗北」
・・・仲買は公民権を失うような危険を冒さずに済むのである。 丁度この話の出来事のあった時、いつも女に追い掛けられているポルジイが、珍らしく自分の方から女に懸想していた。女色の趣味は生来解している。これは遺伝である。そこで目差す女が平凡な容貌で・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・星――天上の星もこれに比べたならその光を失うであろうと思われた。縮緬のすらりとした膝のあたりから、華奢な藤色の裾、白足袋をつまだてた三枚襲の雪駄、ことに色の白い襟首から、あのむっちりと胸が高くなっているあたりが美しい乳房だと思うと、総身が掻・・・ 田山花袋 「少女病」
出典:青空文庫