・・・ Aは健康で、女子学習院、明治、慶応に教え、岩波書店から、彼の最初の著述、「ペルシア文学史考」が出版されそうになって居る。 自分は、正月の太陽の為に南路を書き、日曜や今日のようにAが家に居、机を並べてやって居る時には、此を書いたり、・・・ 宮本百合子 「小さき家の生活」
・・・漱石は、学習院という特別な学校の性質をはっきり認識し話している。自分では、その特殊性をあまり意識しないで育てられている少年・青年に向って、社会的な人間として、どのような人間形成がめざされてゆくべきか、という点を語っている。 凡そ二時間も・・・ 宮本百合子 「日本の青春」
・・・好奇心に驚きの混った感情で、忽ち話題の中心とした令嬢らの夥しい数があったであろうことも、女子学習院という貴族の女学校に良子さんが籍をおいていた以上想像されることである。あの記事で、これはありつけるぞととりいそぎ紋付袴を一着に及んだ人相よから・・・ 宮本百合子 「花のたより」
・・・もう一つには、Aが、女子学習院に専任になることにもなったので、正月から、自分は、又新たな住居を探すことになった。 片町からでは、単に往復するだけで、三時間余もかかる。雨の日、混雑の時、それ丈徒に神経を浪費することは決して彼の為によくない・・・ 宮本百合子 「又、家」
・・・彼が、目白の学習院へ招ばれ、フロックコオトを着て述べたところの講演は、若い公達等に、人間性の自覚の必要を力説したものであった。 漱石は、飾らない言葉で一面では日露戦争後の日本人の盲目的なヨーロッパ崇拝を罵倒し、他の一面ではヨーロッパの文・・・ 宮本百合子 「「迷いの末は」」
・・・ ―――――――――――――――― 秀麿は学習院から文科大学に這入って、歴史科で立派に卒業した。卒業論文には、国史は自分が畢生の事業として研究する積りでいるのだから、苛くも筆を著けたくないと云って、古代印度史の中から・・・ 森鴎外 「かのように」
わたくしが初めて西田幾多郎という名を聞いたのは、明治四十二年の九月ごろのことであった。ちょうどその八月に西田先生は、学習院に転任して東京へ引っ越して来られたのであるが、わたくしが西田先生のことを聞いたのはその方面からではない。第四高等・・・ 和辻哲郎 「初めて西田幾多郎の名を聞いたころ」
出典:青空文庫