・・・「それをきいて安心しました」 女は私の言葉をなんときいたのか、生真面目な顔で言った。私はまだこの女の微笑した顔を見ていない、とふと思った。 そして、私もこの女の前で一度も微笑したことはない……。 女はますます仮面のような顔に・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・ Kは斯う警戒する風もなく、笑顔を見せて迎えて呉れると、彼は初めてほっとした安心した気持になって、ぐたりと坐るのであった。それから二人の間には、大抵次ぎのような会話が交わされるのであった。「……そりゃね、今日の処は一円差上げることは・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・ 弟達が来ますと、二人に両方の手を握らせて、暫くは如何にも安心したかの様子でしたが、末弟は試験の結果が気になって落ちつかず、次弟は商用が忙しくて何れも程なく帰ってしまいました。 二十日の暮れて間もない時分、カツカツとあわただしい下駄・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・ しかし安心は続かなかった。信子はしばらくして寝ついた。彼女の母が呼ばれた。医者は腎臓の故障だと診て帰った。 行一は不眠症になった。それが研究所での実験の一頓挫と同時に来た。まだ若く研究に劫の経ない行一は、その性質にも似ず、首尾不首・・・ 梶井基次郎 「雪後」
・・・そして何ともいえない懐しさを感じて、『ここだ、おれの生まれたのはここだ、おれの死ぬのもここだ、ああうれしいうれしい、安心した』という心持ちが心の底からわいて来て、何となく、今までの長い間の辛苦艱難が皮のむけたように自分を離れた心地がした。・・・ 国木田独歩 「河霧」
・・・彼等はいずれも食うに困っていた。彼等の畑は荒され、家畜は掠奪された。彼等は安心して仕事をすることが出来なかった。彼等は生活に窮するより外、道がなかった。 板壁の釘が腐って落ちかけた木造の家に彼等は住んでいた。屋根は低かった。家の周囲には・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・ここの細君は今はもう暗雲を一掃されてしまって、そこは女だ、ただもう喜びと安心とを心配の代りに得て、大風の吹いた後の心持で、主客の間の茶盆の位置をちょっと直しながら、軽く頭を下げて、「イエもう、業の上の工夫に惚げていたと解りますれば何のこ・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・もし死に、嫌悪し、哀弔すべきものがあるとすれば、それは、多くの不慮の死、覚悟なきの死、安心なき死、諸種の妄執・愛着をたちえぬことからする心中の憂悶や、病気や負傷よりする肉体の痛苦をともなう。いまやわたくしは、これらの条件以外の死をとぐべき運・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・ 帰り際に、「これで俺も安心した。俺の後取りが出来たのだから、卑怯な真似までして此処を出たいなど考えなくてもよくなったからなア!」 と云った。それから一寸間を置いて何気ない風に笑い乍ら、「――そうすればお前の役目も大きくなる・・・ 小林多喜二 「父帰る」
・・・それが自分の子供の声でないことを知るまでは安心しなかった。 私のところへは来客も多かった。ある酒好きな友だちが、この私を見に来たあとで、「久しぶりでどこかへ誘おうと思ったが、ああして子供をひかえているところを見ると、どうしてもそれが言い・・・ 島崎藤村 「嵐」
出典:青空文庫