・・・いったいに病身らしくて顔色も悪く、なんとなく陰気な容貌をしていた。見物人中の学生ふうの男が「失礼ですが、貴嬢は毎日なんべんとなく、そんな恐ろしい事がらを口にしている、それで神経をいためるような事はありませんか」と聞くと、なんとも返事しないで・・・ 寺田寅彦 「案内者」
・・・ それにしても主婦の容貌があまり日本人によく似ているから、母親もオランダ人かと念のためにB君に聞いてみたが、やはりまぎれもない生粋のオランダ人だという事であった。私は不思議な気がした。当人は人から日本人に似ていると云われるのを喜んでいる・・・ 寺田寅彦 「異郷」
・・・異った人種はよろしく、その容貌体格習慣挙動の凡てを鑑みて、一様には論じられない特種のものを造り出すだけの苦心と勇気とを要する。自分は上野の戦争の絵を見る度びに、官軍の冠った紅白の毛甲を美しいものだと思い、そしてナポレオン帝政当時の胸甲騎兵の・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・彼らは己れの容貌と体格とに調和すべき日常の衣服の品質縞柄さえ、満足には撰択し得ないではないか。或者は代言人の玄関番の如く、或者は歯医者の零落の如く、或者は非番巡査の如く、また或者は浪花節語りの如く、壮士役者の馬の足の如く、その外見は千差万様・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・彼はむしろ懸崖の中途が陥落して草原の上に伏しかかったような容貌であった。細君は上出来の辣韮のように見受けらるる。今余の案内をしている婆さんはあんぱんのごとく丸るい。余が婆さんの顔を見てなるほど丸いなと思うとき婆さんはまた何年何月何日を誦し出・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・当然のことにして、又その家の貧富貴賤、その人の才不才徳不徳、その身の強弱、その容貌の醜美に至るまで、篤と吟味するは都て結婚の約束前に在り。裏に表に手を尽して吟味に吟味を重ね、双方共に是れならばと決断していよ/\結婚したる上は、家の貧乏などを・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・なるほど、現在有名になっている女優一人一人について見れば、容貌にしろ髪の色、声にしろ感情表現の身振りにしろ特長がなくはないのだが、男との相対において現われて来ると、性格的なものをはっきり生かそうというスター・システムの焦慮にもかかわらず、感・・・ 宮本百合子 「映画の恋愛」
・・・ 同僚の顔を見れば、皆ひどく疲れた容貌をしている。大抵下顎が弛んで垂れて、顔が心持長くなっているのである。室内の湿った空気が濃くなって、頭を圧すように感ぜられる。今のように特別に暑くなった時でなくても、執務時間がやや進んでから、便所に行・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・燈火は下等の蜜蝋で作られた一里一寸の松明の小さいのだからあたりどころか、燈火を中心として半径が二尺ほどへだたッたところには一切闇が行きわたッているが、しかし容貌は水際だッているだけに十分若い人と見える。年ごろはたしかに知れないが眼鼻や口の権・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・あるいは外景、室内、容貌、表情などに関する詳細な注意や記憶を持っている。これらも確かに一種の才能である。誰でもが彼らのような観察と記憶とを持つことはできない。けれども多くを詳らかに見ることは直ちに「自然」を深く見ることにはならない。彼らの眼・・・ 和辻哲郎 「「自然」を深めよ」
出典:青空文庫