・・・ ペコンと、ひょうきんな恰好で頭を下げたが、しかし、どこか赤井の顔は寂しそうだった。これから大阪へ帰っても、果して妻や子は無事に迎えてくれるだろうかと、消息の絶えている妻子のことを案じているせいかも知れなかった。 そう思うと、白崎の・・・ 織田作之助 「昨日・今日・明日」
・・・すっかり暗くなったところで弟は行李を担いで、Fとの二人が茶店の娘に送られて出て行ったが、高い石段を下り建長寺の境内を通ってちょうど門前の往来へ出たかと思われた時分、私はガランとした室に一人残って悲みと寂しさに胸を噛まれる気持で冷めたくなった・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
・・・其処で私が、何故そんな事を言うのか、斯うしてお母さんと二人で居ればよいではないか、と言っても彼は「いいえ、僕は淋しいのです。それでは氷山さんの伯母さんでも」と言ってききません。「伯母さんだって世帯人だもの、今頃は御飯時で忙しいだろうよ」と言・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・誰か見てはいなかったかしらと二度目にあたりを見廻したときの廓寥とした淋しさを自分は思い出した。 帰途、書かないではいられないと、自分は何故か深く思った。それが、滑ったことを書かねばいられないという気持か、小説を書くことによってこの自・・・ 梶井基次郎 「路上」
・・・ある夕、雨降り風起ちて磯打つ波音もやや荒きに、独りを好みて言葉すくなき教師もさすがにもの淋しく、二階なる一室を下りて主人夫婦が足投げだして涼みいし縁先に来たりぬ。夫婦は燈つけんともせず薄暗き中に団扇もて蚊やりつつ語れり、教師を見て、珍らしや・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・その淋しさはいうまでもない。この寂寥を経験した人は実に多い。 それから誓いあった相手に裏切られた場合がある。今ひとつは相手に死なれた場合だ。このいずれの場合にも、その悲傷は実に深い。しかし人間はこの寂寥と悲傷とを真直ぐに耐えて打ち克つと・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・いつのまにか、本隊のいる部落は、赭土の丘に、かくれて見えなくなった。淋しさと、心もとなさと、不安は、知らず知らず彼等を襲ってきた。だが彼等は、それを、顔にも、言葉にも現わさないように痩我慢を張っていた。 支那兵が、悉く、苦力や農民から強・・・ 黒島伝治 「前哨」
・・・夕日さす景色も淋し松たてる岡部の里と、為相の詠めるあたりもこの原つづきなり。よっておもうに、岡部の里をよめる歌には松をよめるが多きようなり。深谷に着きて汽車に打乗り、鴻巣にいたりて汽車を棄て、人力車を走らせて西吉見の百穴に人間の古をしのび、・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・勤務――気圧を調べるとか、風力を計るとか、雲形を観察するとか、または東京の気象台へ宛てて報告を作るとか、そんな仕事に追われて、月日を送るという境涯でも、あの蛙が旅情をそそるように鳴出す頃になると、妙に寂しい思想を起す。旅だ――五月が自分に教・・・ 島崎藤村 「朝飯」
・・・ 下りてみると章坊が淋しそうに山羊の檻を覗いて立っている。「兄さんどこへ行ったの」と聞く。「おい、貝殻をやろうか章坊」というと、素気なくいらないと言う。私は不意に帰らねばならぬことと相なり候。わけは後でお聞きなさることと・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
出典:青空文庫