・・・ついぞ一人で啜泣をしながら寂しい道を歩いた事はない。どうかした拍子でふいと自然の好い賜に触れる事があってもはっきり覚めている己の目はその朧気な幸を明るみへ引出して、余りはっきりした名を付けてしまったのだ。そして種々な余所の物事とそれを比べて・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・路傍の茶店を一軒見つけ出して怪しい昼飯を済まして、それから奥へ進んで行く所がだんだん山が近くなるほど村も淋しくなる、心細い様ではあるがまたなつかしい心持もした。山路にかかって来ると路は思いの外によい路で、あまり林などはないから麓村などを見下・・・ 正岡子規 「くだもの」
・・・『まあ政子さんはお可哀そうね、お父様もお母様もいらっしゃらないで……何てお気の毒なのでしょう。淋しいでしょうね、苦しい事が沢山おありになりますでしょう』と云って貰いたくなったのです。 政子さんにそう云う心持が起って来ると・・・ 宮本百合子 「いとこ同志」
・・・山の手の日曜日の寂しさが、だいぶ広いこの邸の庭に、田舎の別荘めいた感じを与える。突然自動車が一台煉瓦塀の外をけたたましく過ぎて、跡は又元の寂しさに戻った。 秀麿は語を続いだ。「まあ、こうだ。君がさっきから怪物々々と云っている、その、かの・・・ 森鴎外 「かのように」
・・・原の広さ、天の大きさ、風の強さ、草の高さ、いずれも恐ろしいほどに苛めしくて、人家はどこかすこしも見えず、時々ははるか対方の方を馳せて行く馬の影がちらつくばかり、夕暮の淋しさはだんだんと脳を噛んで来る。「宿るところもおじゃらぬのう」「今宵は野・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・ 世界は鵜飼の遊楽か、鮎を捕る生業かということよりも、その楽しさと後の寂しさとの沈みゆくところ、自らそれぞれ自分の胸に帰って来るという、得も云われぬ動と静との結婚の祭りを、私はただ合掌するばかりに眺めただけだ。一度、人は心から自分の手の・・・ 横光利一 「鵜飼」
・・・真面目な、ごく真面目な目で、譬えば最も静かな、最も神聖な最も世と懸隔している寂しさのようだとでも云いたい目であった。そうだ。あの男は不思議に寂しげな目をしていた。 下宿の女主人は、上品な老処女である。朝食に出た時、そのおばさんにエルリン・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
・・・ 人の知らない遠い片田舎に、今の奥さまが、まだ新嫁でいらしッたころ、一人の緑子を形見に残して、契合た夫が世をお去りなすったので、迹に一人淋しく侘住いをして、いらっしゃった事があったそうです。さすがの美人が憂に沈でる有様、白そうびが露に悩・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
・・・そのたびごとに子供は強い寂しさや喜びを感じつつ、松林の外の世界を全然忘れている。そういう境地においては実際に初茸は愛らしく、黄茸は品位があり、白茸は豊かであり、しめじは貴い。こういう価値の感じは仲間に教え込まれたのではなくして彼自身が体験し・・・ 和辻哲郎 「茸狩り」
出典:青空文庫