・・・気に入ったのはまるでしがみついたように小脇に抱いて誰かに掠奪されるのを恐れているようである。これも地獄変相絵巻の一場面である。それと没交渉に秋晴の太陽はほがらかに店先の街路に照り付けていた。この年になって、こんな処へ来て、こんな光景を初めて・・・ 寺田寅彦 「札幌まで」
・・・またそのころのやさ男が粉をふりかけた鬘のしっぽをリボンで結んで、細身のステッキを小脇にかかえ込んで胸をそらして澄ましている木版絵などもある。とにかくあのころ以後はずっと行なわれて今日に至ったものであろう。いずれにしても人間がみんな働くのに忙・・・ 寺田寅彦 「ステッキ」
・・・その頃流行った鍔の広い中折帽を被って縞の着物、縞の羽織、それでゴム靴をはいて折カバンを小脇にかかえている、そうして非常にゆっくり落着いて歩いて来るのである。その時私は直感的に、これが虚子という人ではないかと思った。その後子規の所で出会ってそ・・・ 寺田寅彦 「高浜さんと私」
・・・道具を入れた笊を肩先から巾広の真田の紐で、小脇に提げ、デーイデーイと押し出すような太い声。それをば曇った日の暮方ちかい頃なぞに聞くと、何とも知れず気味のわるい心持がしたものである。 鳥さしの姿を見るのもその頃は人のいやがったものである。・・・ 永井荷風 「巷の声」
・・・ 車掌が革包を小脇に押えながら、帽子を阿弥陀に汗をふきふき駈け戻って来て、「お気の毒様ですがお乗りかえの方はお降りを願います。」 声を聞くと共に乗客の大半は一度に席を立った。その中には唇を尖らして、「どうしたんだ。よっぽどひまが掛る・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・三十年を経て今日銀座のカッフェーに出没する無頼漢を見るに洋服にあらざればセルの袴を穿ち、中には自ら文学者と称していつも小脇に数巻の雑誌数葉の新聞紙を抱えているものもある。其の言語を聞くに多くは田舎の訛りがある。 ここに最奇怪の念に堪えな・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・と呟やいてテーブルの上にあった革のカバンに白墨のかけらや講義の原稿やらを、みんな一緒に投げ込んで、小脇にかかえ、さっき顔を出した窓からホイッと向うの向うの黒い家をめがけて飛び出しました。そしてネネムはまちをこめた黄色の夕暮の中の物干台にフゥ・・・ 宮沢賢治 「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」
・・・ やがて、赤い布で凜々しく髪を包んだ二十二三のこれも元気な婦人労働者が、何冊もの本を小脇にかかえて入って来た。「――図書室の本が、まだモスクワから届かないんだってさ。手紙をやりましょうね」「お客さんよ」 その文化委員の婦人労・・・ 宮本百合子 「明るい工場」
・・・おみささんは、大きい四角なかさばった風呂敷包みを小脇にかかえ、眼のすわらないそわそわした顔付きであった。「さあ、もう何もこわえことないわ」「何なの、どうかしたの」「御あいさつもしないで――隣の家でえらいけんかが始りましてね」・・・ 宮本百合子 「田舎風なヒューモレスク」
・・・特高が、フラフラの目を瞑っている今野を小脇に引っかたげて留置場から出て行った。(附記。後で分ったことであるがそこの済生会病院では軍医の玉子が治療をした。そんな命がけの手術をするのに、そこを切れ、あすこを切れと、指図されるような不熟練者が・・・ 宮本百合子 「刻々」
出典:青空文庫