・・・今日中にゃまさか届くでしょう。」「そうだねえ。何も京大阪と云うんじゃあるまいし、――」 地理に通じない叔母の返事は、心細いくらい曖昧だった。それが何故か唐突と、洋一の内に潜んでいたある不安を呼び醒ました。兄は帰って来るだろうか?――・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・ 一体昨夜お前を助けた時、直ぐ騒ぎ立てればよ、汐見橋の際には交番もあるし、そうすりゃ助けようと思う念は届くしこっちの手は抜けるというもんだし、それに上を越すことは無かったが、いやいやそうでねえ、川へ落ちたか落されたかそれとも身を投げたか・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・丈高く伸びたのは、車の上から、花にも葉にも手が届く。――何処か邸の垣根越に、それも偶に見るばかりで、我ら東京に住むものは、通りがかりにこの金衣の娘々を見る事は珍しいと言っても可い。田舎の他土地とても、人家の庭、背戸なら格別、さあ、手折っても・・・ 泉鏡花 「七宝の柱」
・・・とばかり吐息とともにいったのであるが、言外おのずからその明眸の届くべき大審院の椅子の周囲、西北三里以内に、かかる不平を差置くに忍びざる意気があって露れた。「どうぞまあ、何は措きましてともかくもう一服遊ばして下さいまし、お茶も冷えてしまい・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・ 教えられた部屋は硝子張りで、校正室から監視の眼が届くようになっていた。 武田さんは鉛の置物のように、どすんと置かれていた。 ドアを押すと、背中で、「大丈夫だ。逃げやせんよ。書きゃいいんだろう」 しかし振り向いて、私だと・・・ 織田作之助 「四月馬鹿」
・・・煙草を喫うも喫わないも、その道具の手の届くところへ行きつくだけでも、自分の今のこの春の夜のような気持は一時に吹き消されてしまわなければならないということは吉田も知っていた。そしてもしそれを一服喫ったとする場合、この何日間か知らなかったどんな・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・この言葉は短けれどその意は長し―― この書状は例によりてかの人に託すべけれど、貴嬢が手に届くは必ず数日の後なるべし、貴嬢もしかの君に示さんとならば、そは貴嬢の自由なり、われには何の関りもなし。・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・高さ五間以上もある壁のような石垣ですから、私は驚いて止めようと思っているうちに、早くも中ほどまで来て、手近の葛に手が届くと、すらすらとこれをたぐってたちまち私のそばに突っ立ちました。そしてニヤニヤと笑っています。「名前はなんというの?」・・・ 国木田独歩 「春の鳥」
・・・この鐘の最後の一打ちわずかに響きおわるころ夕煙巷をこめて東の林を離れし月影淡く小川の水に砕けそむれば近きわたりの騎馬隊の兵士が踵に届く長剣を左手にさげて早足に巷を上りゆく、続いて駄馬牽く馬子が鼻歌おもしろく、茶店の娘に声かけられても返事せぬ・・・ 国木田独歩 「わかれ」
・・・ ――彼が窓に届くように持って来ておいた踏石がとりのけられている。「ガーリヤ。」 砕かれた雪の破片が、彼の方へとんで来た。彼の防寒外套の裾のあたりへぱらぱらと落ちた。雪はまたとんできた。彼の背にあたった。でも彼は、それに気づかな・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
出典:青空文庫