・・・いつか曇天を崩した雨はかすかに青んだ海の上に何隻も軍艦を煙らせている。保吉は何かほっとしながら、二三人しか乗客のいないのを幸い、長ながとクッションの上に仰向けになった。するとたちまち思い出したのは本郷のある雑誌社である。この雑誌社は一月ばか・・・ 芥川竜之介 「十円札」
・・・彼はその宣言の中に人々間の精神交渉を根柢的に打ち崩したものは実にブルジョア文化を醸成した資本主義の経済生活だと断言している。そしてかかる経済生活を打却することによってのみ、正しい文化すなわち人間の交渉が精神的に成り立ちうる世界を成就するだろ・・・ 有島武郎 「想片」
・・・思いなしか、気のせいか、段々窶れるようには見えるけんど、ついぞ膝も崩した事なし、整然として威勢がよくって、吾、はあ、ひとりでに天窓が下るだ、はてここいらは、田舎も田舎だ。どこに居た処で何の楽もねえ老夫でせえ、つまらねえこったと思って、気が滅・・・ 泉鏡花 「琵琶伝」
・・・尤も一枚こっきりのいわゆる常上着の晴着なしであったろうが、左に右くリュウとした服装で、看板法被に篆書崩しの齊の字の付いたお抱え然たる俥を乗廻し、何処へ行っても必ず俥を待たして置いた。例えば私の下宿に一日遊んでる時でも、朝から夜る遅くまでも俥・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・津浪の如くに押寄せる外来思想は如何なる高い防波堤をも越して日一日も休みなく古い日本の因襲の寸を削り尺を崩して新らしい文明を作りつつある。この世界化は世界の進歩の当然の道程であって、民族の廃頽でもなければ国家の危険でもないのである。 イツ・・・ 内田魯庵 「四十年前」
・・・左翼くずれの同盟記者で大阪の同人雑誌にも関係している海老原という文学青年だったが、白い背広に蝶ネクタイというきちんとした服装は崩したことはなく、「ダイス」のマダムをねらっているらしかった。 私を見ると、顎を上げて黙礼し、「しんみりや・・・ 織田作之助 「世相」
・・・ 警官は斯う云って、初めて相好を崩し始めた。「あ君か! 僕はまた何物かと思って吃驚しちゃったよ。それにしてもよく僕だってことがわかったね」 彼は相手の顔を見あげるようにして、ほっとした気持になって云った。「そりゃ君、警察眼じ・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・それで、その高地を崩していた土方は、まるで熱いお湯から飛びだしてきたように汗まみれになり、フラフラになっていた。皆の眼はのぼせて、トロンとして、腐った鰊のように赤く、よどんでいた。 棒頭が一人走っていった。 もう一人がその後から走っ・・・ 小林多喜二 「人を殺す犬」
・・・山を崩した。熊のいる原始林を伐り開いて鉄道を敷設した。――だが、雪が降ると、それ等の仕事が出来なくなる。彼等は用がなくなるのだ。そうなると、汽車賃もくれないで、オツぽり出される。小樽や函館へ出てくるのはこういう人達なのだ。 雪の国の停車・・・ 小林多喜二 「北海道の「俊寛」」
・・・崖を崩して築き上げた暗い石垣がまだそのままに顕われていた。 二人は復た川の見える座敷へ戻った。先生は戸棚を開けて、煙草盆などを探した。「しかし、先生も白く成りましたネ」 と高瀬が言出した。 先生が長い立派な髯を生したのもこの・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
出典:青空文庫