・・・彼は無風帯を横ぎる帆船のように、動詞のテンスを見落したり関係代名詞を間違えたり、行き悩み行き悩み進んで行った。 そのうちにふと気がついて見ると、彼の下検べをして来たところはもうたった四五行しかなかった。そこを一つ通り越せば、海上用語の暗・・・ 芥川竜之介 「保吉の手帳から」
・・・たれ一人知らず、ただ倶楽部員の中にてこれを知る者はわれ一人のみ、人々はみな二郎が産業と二郎が猛気とを知るがゆえに、年若き夢想を波濤に託してしばらく悠々の月日をバナナ実る島に送ることぞと思えり、百トンの帆船は彼がための墓地たるを知らざるなり。・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・の伴奏を入れたのは大衆向きで結構であるが、城郭や帆船のカットバックが少しくど過ぎてかえって効果をそぐ恐れがありはしないか。自分がいつも繰り返して言うようにもし映画製作者に多少でも俳諧連句の素養があらば、こういうところでいくらでも効果的な材料・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(3[#「3」はローマ数字、1-13-23])」
・・・ この主婦の亡夫は南洋通いの帆船の船員であったそうで、アイボリー・ナッツと称する珍しい南洋産の木の実が天照皇大神の掛物のかかった床の間の置物に飾ってあった。この土地の船乗りの中には二、三百トンくらいの帆船に雑貨を積んで南洋へ貿易に出掛け・・・ 寺田寅彦 「海水浴」
・・・川口に当りて海面鏡のごとく帆船の大き小さきも見ゆ。多門通りより元の道に出てまた前の氷屋に一杯の玉壺を呼んで荷物を受取り停車場に行く。今ようやく八時なればまだ四時間はこゝに待つべしと思えば堪えられぬ欠伸に向うに坐れる姉様けゞん顔して吾を見る。・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・まじょりかの帆船が現われて蒼い海を果もなく帆かけて行く。海にも空にも船にも歳は暮れかかっている。逝く年のあらゆる想いを乗せて音もなく波を辷って行く。船には竹村君も小さくなって乗っている。紙屋の娘も水々しい島田で乗っている。淋しそうな老母の顔・・・ 寺田寅彦 「まじょりか皿」
・・・ こんな風だったから、瀬戸内海などを航行する時、後ろから追い抜こうとする旅客船や、前方から来る汽船や、帆船など、第三金時丸を見ると、厄病神にでも出会ったように、慄え上ってしまった。 彼女は全く酔っ払いだった。彼女の、コムパスは酔眼朦・・・ 葉山嘉樹 「労働者の居ない船」
・・・「おまえたちはみんなまっ赤な帆船でね、いまがあらしのとこなんだ」「いやあだ、あたしら、そんな帆船やなんかじゃないわ。せだけ高くてばかあなひのき。」ひなげしどもは、みんないっしょに云いました。「そして向うに居るのはな、もうみがきた・・・ 宮沢賢治 「ひのきとひなげし」
・・・先刻から吹き始めた風を孕んで、沖にいた帆船が或る距離を保ちながら帰って来た。丁度その塊雲の下と思われる地点へさしかかると、急に船は暗い紅色の帆をあげて走って来るように見えた。それは真先ので、次の船の帆は、オリーヴ色に変色した。最後に来る一つ・・・ 宮本百合子 「帆」
出典:青空文庫