・・・子供の時分から色刷り石版画や地理書のさし絵で見慣れていて、そして東洋の日本の片田舎に育った子供の自分が、好奇心にみちた憧憬の対象として、西洋というものを想像するときにいつも思い浮かべた幻像の一つであったあのヴェスヴィアスが、今その現実の姿を・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・幼い子等には、まだ見たことのない父母の郷国が、お伽噺の中の妖精国のように不思議な幻像に満たされているように思われるらしい。例えば郷里の家の前の流れに家鴨が沢山並んでいて、夕方になると上流の方の飼主が小船で連れに来るというような何でもない話で・・・ 寺田寅彦 「小さな出来事」
・・・の心はその時不思議にこのおとぎ歌劇の音楽に引き込まれて行った。充分には聞きとり兼ねる歌詞はどうであっても、歌う人の巧拙はどうであってもそんな事にかまわず私の胸の中には美しい「子供の世界」の幻像が描かれた。聞いているうちになんという事なしに、・・・ 寺田寅彦 「蓄音機」
・・・あるいは支那人や大雅堂蕪村やあるいは竹田のような幻像が絶えず眼前を横行してそれらから強い誘惑を受けているように見える。そしてそれらに対抗して自分の赤裸々の本性を出そうとする際に、従来同君の多く手にかけて来た図案の筆法がややもすれば首を出した・・・ 寺田寅彦 「津田青楓君の画と南画の芸術的価値」
・・・宗教や伝説や偉人やその他一般に過去を題材とした新しい画から「新しい昔の幻像」を吹き込まれた例を捜してみたが容易に思い出せない。帝展以外の方面もひっくるめてやっと思い出しのが龍子の「二荒山の絵巻」、誰かの「竹取物語」、百穂の二、三の作、麦僊の・・・ 寺田寅彦 「帝展を見ざるの記」
・・・ この美しい音楽の波は、私が読んでいる千年前の船戦の幻像の背景のようになって絶え間なくつづいて行った。音が上がって行く時に私の感情は緊張して戦の波も高まって行った。音楽の波が下がって行く時に戦もゆるむように思われた。投げ槍や斧をふるう勇・・・ 寺田寅彦 「春寒」
・・・こんな幻像を夢うつつの界に繰り返しながらいつのまにかウトウト眠ってしまう。看護婦がそろそろ起き出して室内を掃除する騒がしい音などは全く気にならないで、いい気持ちに寝ついてしまうのである。 このような朝をいくつとなく繰り返した。しかし朝の・・・ 寺田寅彦 「病院の夜明けの物音」
・・・その幻像の周囲にはいつものどかな春の光がある。 亮の生まれた時の事を私は夢のように覚えている。当時亮の家には腸チブスがはいって来て彼の兄や祖母や叔父が相次いで床についていたので、彼の母はその生家、すなわち私の家に来て産褥についた。姉の寝・・・ 寺田寅彦 「亮の追憶」
・・・この月夜の景は現実のものか、それとも一つの幻像か。自分が椽近く座っている、その位置の知覚が妙に錯倒する心持がした。金色夜叉の技巧的美文が出来ざるを得ない自然だ。――都会人の観賞し易い傾向の勝景――憎まれ口を云えば、幾らか新派劇的趣味を帯びた・・・ 宮本百合子 「夏遠き山」
出典:青空文庫