・・・もし妻がその時眼をあげて、私の方を一瞥しなかったなら、私は恐らく大声をあげて、周囲の注意をこの奇怪な幻影に惹こうとした事でございましょう。 しかし、妻の視線は、幸にも私の視線と合しました。そうして、それとほとんど同時に、第二の私は丁度硝・・・ 芥川竜之介 「二つの手紙」
・・・ 見えつつ、幻影かと思えば、雲のたたずまい、日の加減で、その色の濃い事は、一斉に緋桃が咲いたほどであるから、あるいは桃だろうとも言うのである。 紫の雲の、本願寺の屋の棟にかかるのは引接の果報ある善男善女でないと拝まれない。が紅の霞は・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・ 人の形が、そうした霧の裡に薄いと、可怪や、掠れて、明さまには見えない筈の、扱いて搦めた縺れ糸の、蜘蛛の囲の幻影が、幻影が。 真綿をスイと繰ったほどに判然と見えるのに、薄紅の蝶、浅葱の蝶、青白い蝶、黄色な蝶、金糸銀糸や消え際の草葉螟・・・ 泉鏡花 「茸の舞姫」
・・・ 蓋し劇場に向って、高く翳した手の指環の、玉の矜の幻影である。 紫玉は、瞳を返して、華奢な指を、俯向いて視つつ莞爾した。 そして、すらすらと石橋を前方へ渡った。それから、森を通る、姿は翠に青ずむまで、静に落着いて見えたけれど、二・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・ 間広き旅店の客少なく、夜半の鐘声森として、凄風一陣身に染む時、長き廊下の最端に、跫然たる足音あり寂寞を破り近着き来りて、黒きもの颯とうつる障子の外なる幻影の、諸君の寝息を覗うあらむ。その時声を立てられな。もし咳をだにしたまわば、怪しき・・・ 泉鏡花 「化銀杏」
・・・ 僕の目の前には、僕その物の幻影よりほか浮んでいない。「さア、行こう」と、友人は僕を促した。「これから百花園に行くんです」と、僕も立ちあがった。「冷淡! 残酷!」こういう無言の声が僕のあたまに聴えたが、僕はひそかにこれを弁解・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・と思うと、彼の頭にも、そうした幻影が悲しいものに描かれて、彼は小さな二女ひとり伴れて帰ったきり音沙汰の無い彼の妻を、憎い女だと思わずにいられなかった。「併し、要するに、皆な自分の腑甲斐ない処から来たのだ。彼女は女だ。そしてまた、自分が嬶・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・生の幻影は絶望と重なっている」 梶井基次郎 「筧の話」
・・・しかもうっとりとした生の幻影で私を瞞そうとする太陽。おお、私の太陽。私はだらしのない愛情のように太陽が癪に触った。裘のようなものは、反対に、緊迫衣のように私を圧迫した。狂人のような悶えでそれを引き裂き、私を殺すであろう酷寒のなかの自由をひた・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
・・・『死ぬるほどの傷を受けた人はちょうどこんなふうに穏やかなものさ』とかれは思った。『幻影のように彼女は現われて来てまた幻影のように消えてしまった……しごくもっとものことである。自分はかねて待ちうけていた。』文造はその実自ら欺いたので、決してこ・・・ 国木田独歩 「まぼろし」
出典:青空文庫