・・・ですから私は雨の脚を俥の幌に弾きながら、燈火の多い広小路の往来を飛ぶように走って行く間も、あの相乗俥の中に乗っていた、もう一人の人物を想像して、何度となく恐しい不安の念に脅かされました。あれは一体楢山夫人でしたろうか。あるいはまた束髪に薔薇・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・ それから広小路で、煙草と桃とを買ってうちへ帰った。歯の痛みは、それでも前とほとんど変りがない。 午飯の代りに、アイスクリイムと桃とを食って、二階へ床をとらせて、横になった。どうも気分がよくないから、検温器を入れて見ると、熱が八度ば・・・ 芥川竜之介 「田端日記」
・・・ 風立つ中を群って、颯と大幅に境内から、広小路へ散りかかる。 きちがい日和の俄雨に、風より群集が狂うのである。 その紛れに、女の姿は見えなくなった。 電車の内はからりとして、水に沈んだ硝子函、車掌と運転手は雨にあたかも潜水夫・・・ 泉鏡花 「妖術」
・・・だんだん薄暗くなって色々の灯でいろどられてゆく上野広小路の雑沓の様子を見おろしていたのである。そうして馬場のひとりごととは千里万里もかけはなれた、つまらぬ感傷にとりつかれていた。「東京だなあ」というたったそれだけの言葉の感傷に。 ところ・・・ 太宰治 「ダス・ゲマイネ」
・・・二十年前に、上野の何とか博覧会を見て、広小路の牛のすき焼きを食べたと言うだけでも、田舎に帰れば、その身に相当の箔がついているものである。民衆は、これに一目をおくのだから、こたえられまい。況んや、東京で三年、苦学して法律をおさめたそのような経・・・ 太宰治 「如是我聞」
・・・ちょうど中橋広小路の辺へ来た時に、上がったのは、いつものただの簡単な昼花火とはちがって、よほど複雑な仕掛のものであった。先ず親玉から子玉が生れ、その子玉から孫玉が出て、それからまた曾孫が出た。そしてその代の更り目には、赤や青の煙の塊が飛び出・・・ 寺田寅彦 「雑記(2[#「2」はローマ数字、1-13-22])」
・・・ 上野広小路の喫茶店へはいった。年若い芸者を二人連れた若旦那の一組がコーヒーをのんでいる。その前に女学生が二人立っている。二人の芸者はそれぞれ一つずつ千人針の布片を手にもったままで女学生と何かしら問答している。千人針が縁となってここに二・・・ 寺田寅彦 「千人針」
・・・ 広小路の松坂屋へはいって見ると歳末日曜の人出で言葉通り身動きの出来ない混雑である。メリヤスや靴下を並べた台の前には人間の垣根が出来てその垣根から大小色々な無数の手が出てうごめきながら商品をつまぐり引っぱり揉みくたにしている。どの手の持・・・ 寺田寅彦 「猫の穴掘り」
・・・ 一週間も田舎へ行っていたあとで、夜の上野駅へ着いて広小路へ出た瞬間に、「東京は明るい」と思うのであるが、次の瞬間にはもうその明るさを忘れてしまう。 札幌から出て来た友人は、上京した第一日中は東京が異常に立派に美しく見えるという。翌・・・ 寺田寅彦 「破片」
・・・ 五 上野のデパートメントストアの前を通ったら広小路側の舗道に幕を張り回して、中に人形が動いていた。周囲に往来の人だかりのするのを巡査が制していた。なんとなく直感的にその幕の中には人が死んでいそうな気がしたが、夕・・・ 寺田寅彦 「LIBER STUDIORUM」
出典:青空文庫