・・・が、これは眼の小さい、鼻の上を向いた、どこかひょうきんな所のある老人で、顔つきにも容子にも、悪気らしいものは、微塵もない。着ているのは、麻の帷子であろう。それに萎えた揉烏帽子をかけたのが、この頃評判の高い鳥羽僧正の絵巻の中の人物を見るようで・・・ 芥川竜之介 「運」
・・・――おれはそう思っていたから、天下を計る心なぞは、微塵も貯えてはいなかった。」「しかしあの頃は毎夜のように、中御門高倉の大納言様へ、御通いなすったではありませんか?」 わたしは御不用意を責めるように、俊寛様の御顔を眺めました、ほんと・・・ 芥川竜之介 「俊寛」
・・・こちらから快活に持ちかけて、冗談話か何かで先方の気分をやわらがせるというようなタクトは彼には微塵もなかった。親しい間のものが気まずくなったほど気まずいものはない。彼はほとんど悒鬱といってもいいような不愉快な気持ちに沈んで行った。おまけに二人・・・ 有島武郎 「親子」
・・・三枚ほどの硝子は微塵にくだけて飛び散った。彼れはその音を聞いた。それはしかし耳を押えて聞くように遠くの方で聞こえた。彼れは悠々としてまたそこを歩み去った。 彼れが気がついた時には、何方をどう歩いたのか、昆布岳の下を流れるシリベシ河の河岸・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ 片手を懐中へ突込んで、どう、してこました買喰やら、一番蛇を呑んだ袋を懐中。微塵棒を縦にして、前歯でへし折って噛りながら、縁台の前へにょっきりと、吹矢が当って出たような福助頭に向う顱巻。少兀の紺の筒袖、どこの媽々衆に貰ったやら、浅黄の扱・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・人間が見て、俺たちを黒いと云うと同一かい、別して今来た親仁などは、鉄棒同然、腕に、火の舌を搦めて吹いて、右の不思議な花を微塵にしょうと苛っておるわ。野暮めがな。はて、見ていれば綺麗なものを、仇花なりとも美しく咲かしておけば可い事よ。三の・・・ 泉鏡花 「紅玉」
・・・、大夕立これあり、孫八老、其の砌某所墓地近くを通りかかり候折から、天地晦冥、雹の降ること凄まじく、且は電光の中に、清げなる婦人一人、同所、鳥博士の新墓の前に彳み候が、冷く莞爾といたし候とともに、手の壺微塵に砕け、一塊の鮮血、あら土にしぶき流・・・ 泉鏡花 「神鷺之巻」
・・・ 目の下の崕が切立てだったら、宗吉は、お千さんのその声とともに、倒に落ちてその場で五体を微塵にしたろう。 産の親を可懐しむまで、眉の一片を庇ってくれた、その人ばかりに恥かしい。……「ちょっと、宅まで。」 と息を呑んで言った―・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・ 淡島家の養子となっても、後生大事に家付き娘の女房の御機嫌ばかり取る入聟形気は微塵もなかった。随分内を外の勝手気儘に振舞っていたから、奉公人には内の旦那さんは好い旦那と褒められたが、細君には余り信用されもせず大切がられもしなかった。・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・それ故大学を卒業して学士になろうなどという考は微塵もなく、学士というものがどれほどエライものであるか何かそんな事は一向念頭になかった。であるから『書生気質』や『妹と背鏡』を見て、文学士などというものは小説が下手なものだと思ったばかりであるが・・・ 内田魯庵 「明治の文学の開拓者」
出典:青空文庫